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[2013.02.07]

人を死に至らしめる呪物



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【死神ベンツ】

王室のオフィシャルカーに乗りパレードに臨む皇太子夫妻▲
まさかこの後、あんな事になろうとは・・・。

サラエボ事件▲
オーストリア皇太子が至近距離で銃撃される瞬間を描いた絵。

サラエボ事件▲
オーストリア皇太子が至近距離で銃撃される瞬間を描いた絵。
1914年6月28日、オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナンド大公は、14回目の結婚記念日のパレードの為、妻のゾフィーを伴なって、当時オーストリア領だったボスニア州(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)の首都サラエボにやってきていた。
大公夫妻は、オーストリア第5師団長ポチオレック将軍とボスニア知事、2名の護衛と共に、6人乗りのオープンカーである、まるで血の様な赤色をした当時の最新式のベンツ540の後部座席に乗っていたんですね。
ところがですね、午前10時過ぎ頃に、4台からなる車列が動き出すや、2番目にいた大公夫妻の乗るベンツに、民衆の中からバラの花束が投げ込まれたそうなんですよ。
しかし、花束から煙が出ている事に気づいた皇太子は、とっさに沿道にそれを捨てたところ、後続の車が通った時に爆発したそうなんだ。
これにより、大勢の怪我人が出たにも拘わらず、大公夫妻は無事だったので、スピードを上げて市庁舎に向かった。


オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナンド大公▲

オーストリアの皇太子フランツ・フェルディナンド大公▲
そして、市庁舎でのレセプションを終えた大公夫妻は、急遽予定を変更して、先の爆発騒ぎでの怪我人のお見舞いの為、病院に行く事にしたんですね。
が、運転手が道を誤り脇の路地に入ってしまった為、車を方向転換させるべく急停止したところ、急に1人の男が飛び出して拳銃を乱射し、大公夫妻を撃ち殺しちゃったんですよ。
犯人はガブリロ・プリンツィップという19歳のセルビア人無政府主義者で、その場で毒と拳銃で自殺を図るもすぐに取り押さえられ逮捕された。
その後、オーストリア政府は、皇太子が死んだ責任は、ろくに警備を敷いていなかったセルビアにあるとして宣戦を布告した為、この暗殺事件、世に言う「サラエボ事件」をきっかけとして、死者2000万人にも及んだ第一次世界大戦が勃発する事になったんですね。
一方、ベンツは暗殺事件の後、車に同乗していたポチオレック将軍の手に渡ったんですがね、前線で指揮をしていた彼は、3個師団を失う等の作戦ミスが重なり、責任の重圧から精神を患って入院し、ベンツ入手の20日後にそのまま死亡してしまったんですよ。
次にベンツは、ポチオレック将軍の参謀を務めていたドスメリア大尉の手に渡たるも、その9日後に、彼は運転中に農夫2人を轢き殺し木に激突し、首の骨を折って死亡したんですよ。
でもって、第一次世界大戦後には、ユーゴスラビアの州知事がベンツを修復して改良を施し、彼は気に入って乗っていたそうなんですがね、4ヶ月で4度の事故を起こして右腕を失っちゃったんですよ。
知事は「この車には死神がついている」とか言って、車の解体を命じる程に恐れたそうなんですがね、彼の友人のスリキスという医師が解体に反対し、タダ同然でベンツを譲り受けたそうなんだ。
が、その6ヶ月後に、路上で転覆したベンツの下敷きになっているスリキスの遺体が発見されたそうなんですねえ。

運転してた奴ら免許取り立ての初心者だったんじゃね?

なるほど、若葉マークのくせに高級車とは生意気な・・・って、んな訳ねーだろッ!

でも確かに、いくらなんでもちょっと事故り過ぎですよね。


皇太子が乗っていたものと同タイプの車▲

皇太子が乗っていたものと同タイプの車▲
その後ベンツは、オランダ人の宝石商の手に渡ったんですがね、1年後に彼は謎の自殺を遂げてしまった。
次にある医者がベンツを所有したんですがね、次々と死者が出ているベンツの呪いを恐れて患者が遠のいたので、仕方なくサミレスというスイス人のカーレーサーに売り飛ばされたんですよ。
サミレスは呪いなぞ信じず、すぐにレース用に改造したベンツでアルプス・ドロミテのロードレースに参加したそうなんですがね、そのレース中に横転しちゃって投げ出され、石壁を越えて5m下に叩き付けられ首の骨を折り、やはり死んじゃったそうなんだなあ。
で、ベンツはドイツの実業家の手に渡ったんですがね、その僅か2日後に、彼も石壁に衝突して死んじゃったそうなんですよ。
さすがにこの頃には噂が広まっており、ベンツの買い手はなかなか現れなかったそうなんですけどね、何だかんだで巡り巡ってサラエボに住むゴルシェという農場主が買い取ったんだ、うん。
けど、やはりその数ヶ月後のある朝、彼はエンストして動かなくなったベンツを町で修理する為、通りかかった荷馬車で引っ張っていたところ、急にベンツが暴走し、荷馬車にぶつかって横転させ、ゴルシェと荷馬車の持ち主は死んでしまったんですね。
でもって、ベンツは修理工場に運ばれ、そこの経営者であるタイバー・ハーシュフィールドが所有する事になった。
彼はベンツの血の様な赤色を不吉に思い、明るい青色に塗り替えましてね、ある結婚式に呼ばれた際、5人の友人と一緒に走行していたそうなんだ。
したら、途中で急にベンツが暴走したそうでしてね、対向車に正面衝突して、ハーシュフィールドとその友人4人は死亡してしまったんですね。
その後、ベンツは再び修理されたんですが、誰も欲しがる者がいなかった為、やがてオーストリア政府に接収され、ウィーン博物館に展示される事になった。
案内係のカール・ブルナーは、ベンツをとても気に入り、大切に管理したそうなんですがね、第二次世界大戦の開戦で、連合軍の爆撃によってウィーン博物館は破壊されちゃったそうなんだ。
しかし、ベンツの残骸も、ブルナーの遺体も見つからなかったってな話ですよ、ええ。

ウィーン博物館に展示されている実際の車▲
弾丸の穴は後部車輪上にある。

おい、ベンツなら今もその博物館に展示されているぞ。
大体だね、ベンツ540シリーズは1936年に登場した車であって、1914年のサラエボに存在する訳が無いのだよ。
そもそもこの車、実際にはベンツですらなく、 オーストリアの自動車メーカーGraef & Stift社のoffener Tourenwagenという車なのである。

そういえば塗り替えたっていう車体の色も全然違いますしね・・・。

いやあ、こーいう感じの方が都市伝説っぽくていいじゃないですか。

おいコラ、デマ情報を流してんじゃねーよ!

何やかんやで現存してるので、しぶとい車なのは確かですよね。


暗殺犯ガヴリロ・プリンツィプ▲
彼はその後セルビアの愛国者として賞揚され、暗殺現場付近の橋は一時期プリンツィプ橋と名づけられた(現在は元の名称のラテン橋)。

暗殺犯ガヴリロ・プリンツィプ▲
彼はその後セルビアの愛国者として賞揚され、暗殺現場付近の橋は一時期プリンツィプ橋と名づけられた(現在は元の名称のラテン橋)。
ところで、話を戻すが、サラエボ事件には不可解な点があってね。
大公夫妻の暗殺犯プリンツィプは確かにセルビア人だったが、オーストリア領のボスニア州に住んでいた。
また、セルビア政府が彼に暗殺を指令したり、援助をした証拠も無く、それどころかセルビアの宰相は、テロ組織が動いている情報を得て、オーストリア政府に通達していたのである。
ならば、オーストリア政府は大公夫妻のサラエボ訪問を中止してもいい様なものだし、また、わざわざ危険を教えてくれたセルビア政府に宣戦布告するのはおかしい。
この事から、オーストリア政府は暗殺される事が分かっていて、わざと大公夫妻をサラエボにやったのではないかと言われているのだ。
どうやら、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、甥にあたる皇太子が女官と身分違いの結婚をして以来、彼と不仲になっていたらしく、また、ボスニアではセルビア系住民の民族運動が激しくなっていた為、セルビア政府を屈服させる必要が出てきていたと思われる。
そこで、セルビアに宣戦布告する口実として、故意に大公夫妻を暗殺させたとも考えられるのである。
そして、ドイツと手を結んだオーストリアに対し、弱小国であったセルビアは、大国ロシアに支援してもらう事で対抗するしかなかった。
当時帝国だったロシアの皇帝ニコライ2世には、絶大な信頼を寄せていた参謀がおり、彼は以前から「オーストリアの関わる戦争に介入するのは避けるべき」と進言していたという。
だが、その人物、グリゴリー・ラスプーチンは、奇妙な事に1941年6月28日、大公夫妻が暗殺された同日同時刻に、故郷のポクロフスク村で何者かに刃物で刺され、瀕死の重傷を負った為、ニコライ2世への進言が出来ず、結果、ロシア帝国はセルビアの要請を受けて参戦し、後の第一次世界大戦へと繋がる事となったのである。


【座ると死ぬ呪いの椅子】

サースク博物館に展示されたバズビーの椅子▲

椅子の説明書きにある図▲

椅子の説明書きにある図▲
イギリスのヨークシャー州にあるサースク博物館にはですね、天上からロープで吊され、誰も座れない様にしてある椅子が展示されているんですよ。
何でそんな事されてるのかって言うとですね、実はその椅子には、トーマス・バズビーっていう男の怨念が込められているそうで、座った人間は死んでしまうって言われているんですよ。
1702年、バズビーは偽札製造で有名なギャングのボスであるダニエル・オーティーの娘エリザベスと結婚し、そいで、オーティーから普段彼が使っていた肘掛け椅子を貰ったそうなんですよ。
当時、椅子は富と権力の象徴だったそうでしてね、肘掛け椅子は頂点に立つ者しか座る事が許されなかったそうなんですよ。
まあ、とにかくこの結婚により、組織の下っ端であったバズビーが出世したってな感じだったんですねえ。


トーマス・バズビー▲

トーマス・バズビー▲
ところが、その椅子を手に入れてから、バズビーの人柄が変わっていったそうなんですよ。
1日中、その椅子に座って酒ばっかり飲む日々が続く様になり、何かに取りつかれた様になったバズビーを心配した妻のエリザベスは、父のダニエルに相談したんですよ。
で、ある夜ダニエルがバズビーの家に様子を伺いにやって来た際、バズビーは机の引き出しから1枚の紙を取り出したそうなんですよ。
その紙には、「私ダニエル・オーティーは、義理の息子であるトーマス・バズビーに、全ての財産と組織の地位を譲る」っていう遺言状の様な内容が書いてあったんですよ。
で、彼はこの内容に同意を表明するサインを迫ったそうなんですね。
でも、この図々しい申し出にダニエルは怒り、やがて激しい口論から2人は取っ組み合いとなり、とうとうバズビーは義父であるダニエルをハンマーで殺害してしまったんですよ、ええ。
その後、バズビーは死体を森に隠してから家に帰り、あの椅子に座って眠ってしまった。
しかし、その現場を見ていたエリザベスが警察に通報した為、バズビーはすぐに逮捕され、その1ヵ月後、バズビーは絞首刑に処されちゃったんですね。
しかも、バズビーの亡骸は、しばらく絞首台に吊るされたままにされたそうです。

いるよな、自分の望むポストに座った途端に態度が急変する奴。

私の学校の学年主任も教頭になった途端、自己保身の塊になっちゃいました。

いや、その情報どうでもいいですけど・・・。

パブ「THE BUSBY STOOP INN」▲

ザ・バズビー・ストゥープ・チェア▲

ザ・バズビー・ストゥープ・チェア▲
で、それから250年後の1952年、バズビーが処刑された跡地に、「THE BUSBY STOOP INN(バズビーが吊された場所)」ってな直球のブラックジョークな名のパブが出来ましてね、そこには、エリザベスが家財道具を処分した一環で、バズビーのあの椅子が置かれていたんですよ。
この椅子は、持ち主が殺人犯で絞首刑になっていた事により、呪いがかけられているなんて噂が広まり、酔った勢いもあり、面白がって座る人が結構いたそうなんですよ。
ところがですね、どうやらその呪いは本当だったんですねえ。
第2次世界対戦中、24歳のある空軍のパイロットは、パブで仲間達と酒を飲んでいた際、この椅子の話題になり、軽い気持ちで椅子に座っちゃったんですよ。
したら、その数時間後に、彼は交通事故に遭い、死んでしまっそうなんですよ。
また、ふざけてこの椅子に座った兵士達は全員戦死したそうです。
また、ある建築作業員は、仲間が止めるのもきかずこの椅子に座ったところ、その翌日、仕事中に屋根の上で作業をしていた時に足を滑らせて転落し、首の骨を折って死んでしまったそうなんですよ、ええ。
そんな事があった為、この椅子の噂はますます広まり、若者達が度胸試しに使われる様になり、年間で数人はこの椅子に座り、そして、極めて短期間で必ず死んでしまったそうなんですねえ。
その数は300年間で61人とも言われています。
パブのオーナーもさすがに気味が悪くなった為、この椅子は1978年に地元のサースク博物館に寄付され、「ザ・バズビー・ストゥープ・チェア」と名づけられ、別名「死を招く椅子」とも呼ばれ、これ以上、犠牲者を出さない為に、まるで、かつての持ち主であるバズビーが縄で吊るされた様に、天井からロープで吊り下げられて展示されているんですよ。

20年以上も放置だなんて、パブのオーナー対応遅すぎますよ・・・。

これ邪魔な奴の椅子とさり気なく取り替えて座らせれば、完全犯罪が成立するな。

さすがに不自然でバレるだろッ!

椅子に座っただけで死ぬだって?フ、極めて馬鹿馬鹿しい。
電気椅子じゃあるまいし、たまたま偶然が重なっただけだよ。
考えてもみたまえ。
椅子に座った後、短期間で死んだ者は300年で61人。
平均すれば5年で1人だ。
当時は現在より医学が発達していなかった事もあり、これ位の人数が普通に死んでいてもおかしくない。
まして、第2次世界大戦中であったから、兵士が全員戦死したってのも、当たり前と言えば当たり前の事だ。
大体、その61人全員が椅子に座って死んだという客観的な証拠、つまり何時誰が座ったかというデータが無いじゃないか。
恐らく、パブのオーナーがこの曰くつきの椅子を店の宣伝材料に利用していたら、たまたま店の常連客が1人怪死を遂げた為、自然と噂が連鎖的に広まり、さらに客寄せの為に有る事無い事を付け加え、客の中で怪死者が出れば、1人残らず椅子の犠牲者に仕立て上げたんだよ。

おお、なるほど。つまり死ぬ死ぬ詐欺によるステマですね。

でもですね、同じヨークシャー州にはもう1つ、座ると死ぬ椅子があるそうなんですよ。
ハリファックスという地域の、「アイビー・ハウス・イン」というパブの店内の片隅には、現在でもポツンと椅子が置かれていましてね、その椅子に座った者が 4年間で7人が亡くなっているそうなんですよ。
その椅子は ある老女が夫を亡くし、家を引っ越しそうと思い、家具を売り出した時、パブのオーナーが譲ってもらった物だそうです。
その際、売り主の老女は「主人は一度もこの椅子に座らずに眺めていた」と奇妙な事を言っていたそうです。
しかもね、このハリファックスという土地は、何の因果かトーマス・バズビーの生地でもあったんですよ。

メシがマズいとはいえ、イギリスの店じゃうっかり腰も下ろせないな。

せめて注意書きくらいはしておいて欲しいもんですよね・・・。


【触ると死ぬ呪いのドクロ】


呪いのドクロのイメージ▲

呪いのドクロのイメージ▲
1907年7月3日、イギリスのスコットランドで、イアン・マックシェイプ卿という城主が、彼を憎む部下の罠にはまり、殺人事件の犯人に仕立て上げられてしまい、無実の罪で首吊りの刑に処されちゃったんだ、うん。
イアン卿の妻は、不当な死刑を受けてしまった夫を嘆き悲しみ、事もあろうに死体を掘り起こして首を切断し、居城の一室にイアン卿の頭蓋骨(ドクロ)を置く事にしたんですよ。
したら、それから毎晩、ドクロのある部屋から凄まじい叫び声が聞こえてくる様になった。
連日、この様な事が続き、「イアン卿が幽霊となって復讐しに来るのでは」という話になり、部下の者達はこのドクロを再び埋葬し直すことにしたんですよ。
この作業を任された下男のフィリップは、早速部屋に向かい、ドクロを持ち上げようとした。
ところが、フィリップがドクロに触れた瞬間、突然ドクロが「ギャーギャー」という凄まじい叫び声をあげ、激しく揺れだしたそうなんですよ。
その声は耳を塞いでも脳に直接響く様な大声だったそうです。
驚いたフィリップはすぐに逃げだした。
しかし、その翌日からフィリップは原因不明の高熱と悪夢に襲われ、「呪われている、あのドクロは呪われている・・・」と、何度もうわごとを言いながら、3日後に息を引き取ってしまった。
この事態に、周囲の者達は全員恐怖した。
だが、このままドクロを放っておくわけにはいきませんからね、再び別の者が試みたんですが、全く同じ現象が起こり、その男も原因不明の高熱と悪夢に苛まれ、数日後に死亡してしまったんですねえ。
で、その後も城の者達が次々と挑戦してったんですがね、ドクロに触れた者は皆、原因不明の高熱と悪夢で死亡ってな結末を迎えてしまったんだなあ。

チリトリとかで取ればいいのに。

持ち運ぶ時のバランスが難しそうですね。

それはそれで呪われそうですが・・・。

そして、誰もドクロに触れようという者はいなくなり、80年以上の時が流れたんですね。
城には未だにドクロが安置されており、それを見に観光客も訪れる様になったんですがね、皆遠巻きに見て帰るだけで、実際に触ってみた者は誰もいなかったそうです。
しかし、1993年8月1日、スペインからの旅行者ペドロ・ロペスは、この噂を伝え聞き、城を訪れたんですよ。
この時、城の管理をしていたのは変死を遂げたフィリップの子孫だったそうです。
ペドロは管理人に案内され安置室に入った。
すると、そこにはテーブルの上に無造作にドクロが置かれていた。
この時、管理人に「伝説を気にしないのなら、触っても構いませんよ」と言われたペドロは、一気に両手でドクロを持ち上げてみせたんですよ。でもね、何の異変も起こらなかった。
所詮はただの伝説か、ってな感じで拍子抜けしたペドロは、ドクロをテーブルに戻し、早々にホテルに引き上げた。
しかし、ペドロがホテルに着いてベッドに入ると、やはり原因不明の強烈な寒気と高熱が一気に出始めたんですよ。
救急車が到着して彼が運び込まれるも、病院に着くまでの間に彼は心臓発作を起こし、意味不明の言葉を繰り返しながら、ついに息を引き取ってしまった。
なんと、80年以上の時を経ても、呪いは生きていたんですねえ。
結局、このドクロの犠牲者は13人にも及んだのです・・・。

うわ~、ちょっと呪いがしつこいにも程がありますよね・・・。
どんだけ粘着質なんでしょう。

ドクロだけに関係者はド苦労な事じゃな。

呪いよりもこのくだりに供養が必要ですヨ。


【動かすと死ぬ呪いの石柱】


何の変哲もない通りに建つ石柱▲
「ホーンテッド・ピラー」とも呼ばれている。

何の変哲もない通りに建つ石柱▲
「ホーンテッド・ピラー」とも呼ばれている。
アメリカのジョージア州オーガスタ市ブロード通りにはね、高さ約3m、幅約90cmの、大きな石柱が建っていましてね、これが歩道の真ん中にあって、人々の往来の妨げになっていた。
実はオーガスタ市はね、1865年に奴隷制度が廃止されるまで、多くの黒人達が、白人達によって品物の様に売買される奴隷市場があったそうでしてね、この石柱は、反抗的な奴隷をこの上に立たせ、白人達が寄ってたかって殴る、蹴る、ムチで叩く等の制裁を加える為に使われていたものであり、多くの奴隷達がここで命を奪われたそうなんですよ。
で、奴隷制度が廃止になった後、奴隷制度を偲ばせる遺品として、この石柱を別の場所に移し、記念碑として残す事になっていたそうなんですがね、移動作業を行った2人は、その日の内に原因不明の食中毒になってしまい、そろって死んでしまった。
翌日、別の2人が作業を引き継ぐ事になったんですがね、今度は作業中に石柱が倒れてきて、1人が下敷きになって圧死、もう1人はこれまた心臓発作で死亡してるんですよ、ええ。
街の人々は、「奴隷達の怨念による祟りだ」なんて噂しあった。


現地にある奴隷市場の石柱に関する案内板▲

現地にある奴隷市場の石柱に関する案内板▲
この作業の責任者ジェム・トーマスは、次の作業員を募集したんですがね、噂が広まってしまい、誰も名乗りを上げないんで、仕方なく、自分でやる事にし、なんとか他に3人呼び、作業に取り掛かったんですよ。
でもね、石柱を数十cm動かしたその時、なんと近くを流れるサヴァンナ河が、先日からの大雨で決壊し、溢れ出た濁流が一気に現場に襲い掛かってきたそうなんですよ。
そいで、3人の作業員は濁流に飲み込まれ溺死し、トーマスもその1~2週間後に肺炎を起こして死亡してしまった。
石柱の恐怖の噂はますます広まり、とうとう移動計画は中止されてしまった。

ただの柱にしか見えないのに、犠牲者てんこ盛りじゃないですか。
無理して動かさなきゃいいのに・・・。

カッパーフィールドにでも任せりゃスマートに解決するだろ。

確かに、彼なら布切れかけて瞬く間に消失・・・って出来るかッ!


石柱は知る人ぞ知る観光地になっている▲

石柱は知る人ぞ知る観光地になっている▲
ところが、まだこの話は終わらないんですよ。
時は流れ1903年、市役所によるオーガスタ美化計画の手始めとして、通行に邪魔なこの石柱を再び撤去する事になったんですね。
噂を知る街の人々はやめた方がいいって忠告したそうですがね、2人の作業員は、そんなの迷信と思い作業を行った。
そいで、1日の作業を終えて引き上げようとしたその時、なんと突然、落雷が2人にブチ当たったんですよ、ええ。
彼らは即死ですよ、即死。
結局、またもや石柱の移動は打ち切られてしまった。
数日後、何処からか1人の行商人がやってきたんですよ。
で、彼はここは店を出すのに丁度いいからってな具合で、石柱に帆をかけ、商売を始めてしまった。
したら数日後、なんと彼は原因不明の心臓麻痺で死亡してしまったんですよ。
1910年にも、車がこの柱に正面衝突し、運転手が死亡しているんですよ。それがこの街で初めての交通事故だったそうです。
また、1940年頃にも、この石柱に車が突っ込み、乗っていた4人の若者全員が死亡するという事故が起きているんですねえ。
そして1951年、今度こそはとばかりに市が柱を移動させる事にし、地元の土木会社のハイラム・シャープは、石柱の噂などくだらない迷信だってな感じで要請を受けたんですよ。
しかし彼も、呪いから逃れられなかったのか、作業に入る直前に階段から転落し、首の骨を折る重症を負ってしまった。
それ以来、石柱の移動を試みた者はいません。
これらの恐ろしい出来事は、過去の奴隷制度という恥ずべき行為に対する戒めなんでしょうかねえ・・・。

呪いの石柱だかピカチュウだか知らないが、こんなもの単に偶然が重なっただけに過ぎんよ。

しかし、偶然だけで片付けるには、安っぽいドラマの最終回ばりにタイミング良く死に過ぎですよ・・・。


【写真を撮られると死ぬ国王】


ヤフヤー王の肖像画▲

ヤフヤー王の肖像画▲
アラビア半島南の石油産出国である、イエメンの国王を務めていた82歳のイマーム・ヤフヤー王(1869年~1948年)は、生まれてから一度も自分の写真を撮った事がなかったんですよ。
何故ならですね、幼い頃に占い師から「もし誰かに写真を撮られ、それが世に出回れば、あなたは不慮の死を遂げる事になるでしょう」と予言されたからなんですよ。
この予言を完全に信じたヤフヤー王は、決して人に写真を撮らせない様に最大限の配慮をしたんですよ。
だから国民も、ヤフヤー王の顔を見た事がなかった。
しかしある時、国王に面会を許された、あるイタリア人の画家が、ほんの数時間の面会中に国王の顔の特徴を完全に覚えてしまい、すぐに国王の肖像画を描きあげてしまった。
ヤフヤー王は、写真こそ撮らせはしなかったものの、漫画タッチの肖像画を許してしまった。これがいけなかったんだなあ。
この肖像画は、後にアメリカのロバート・レロイ・リプレーという作家の元に渡った。
リプレーは当時のアメリカの人気作家でしてね、新聞に『信じようと信じまいと』という、世界中の不思議な事件や奇妙な風習をレポートした独自のコラムを、漫画等を織り交ぜて発表しており、これが大変な人気を博してしたんですよ。
でね、このコラムに、「イエメンの国王は、自分の写真を他人に見られると自分が死ぬと信じている為、国民は誰も国王の顔を知らないのだ」という記事と共に国王の肖像画を新聞に掲載してしまったんですよ。この記事が掲載されたのは1948年2月20日。
写真ではないが、絵という媒体を通じて国王の顔が多くの人の目に触れた丁度この日、なんと占い師の予言通りなのか、イエメンにクーデターが起こり、ヤフヤー王は反乱部隊によって殺害されてしまったんですよ。
クーデターは王位継承を狙う1人の王子の陰謀であり、それによってヤフヤー王と、16人の息子の内の3人及び主任顧問が暗殺されてしまった。
ヤフヤー王殺害のニュースはその日の内にアメリカにも伝わり、夕刊に記事が掲載された。
ヤフヤー王は、ほぼ地球の反対側のアメリカの新聞記事だし、肖像画ならば大丈夫と油断してしまったんでしょう。

某ジャニーズばりに厳戒態勢だった割に、 肖像画がそのまま遺影になるとは皮肉なもんじゃな。

新聞が出たその日に即効でお亡くなりとは、やはり予言が当たったとしか思えませんね。

昔は迷信で、写真を撮られると魂が吸い取られるなんて言われましたけどね。

野グソしてるとこ盗撮されたとかならともかくな。

それはむしろ自殺したくなりますよ!


【殺人機関車】


事件現場の高架橋付近▲

事件現場の高架橋付近▲
1963年8月8日午前3時、イギリスのロンドン郊外約200キロの鉄路を走行していた現金輸送列車が強盗団に襲われ、現金263万ポンド(当時約30億円)が強奪された。
これはギネスブックに記載されている史上最大の強奪事件なんですね。
犯人はすぐに逮捕されたものの、主犯格のロナルド・ビッグスは2年後に脱獄し、 それをスコットランドヤード特捜部のジャック・スリッパー刑事が追跡し始めたんですよ。
以降、双方は世界をまたにかけ、30年以上に及ぶ逃走・追跡劇はマスコミを幾度も賑わせ、『大列車強盗団』というタイトルで映画化もされたんですよ。
が、しかし、今回の主役は彼らじゃなくてですね、 その列車を牽引していた「D236」ってな形式番号を持つ機関車なんですよ。
D236が最初に本性を現したのは強盗事件の前年の1962年、ブレーキの故障で他の列車と衝突し、 18名の死者と多数の重軽傷者を出したそうです。
翌年には前述の強盗事件の1ヵ月後、機関士が心臓麻痺で急死。
その翌年には機関士が誤って高圧電線に触れて感電死、8週間後にも保線工事中の作業員6名が轢死、さらに走行中に機関士が足を滑らせて機関室から落下し、 すれ違った列車に跳ねられて死亡するという事件が起こり、ついに引退を余儀なくされちゃったそうなんですねえ。
また、強盗事件の際にも運転士が殴られて気絶し、この時の傷が元で7年後に死亡したそうでしてね、 とにかくこの機関車に関わった人物が多数亡くなっているんですね。

イギリスの機関車は隙あらば人殺しそうな顔してるもんな。

確かに、アレ冷静に見てみると結構怖いですよね。

チビッ子に申し訳ない発言はやめんかいッ!


【呪われた戦艦】

戦艦シャルンホルスト▲

1940年、英国空軍に爆撃を受けるシャルンホルスト▲

1940年、英国空軍に爆撃を受けるシャルンホルスト▲
戦艦シャルンホルスト(2万6000トン)は、ナポレオンと戦いドイツの独立戦争で活躍した軍人の名に由来する、 第一次大戦後に建造されたドイツ海軍最初の戦艦なんですがね。
この戦艦、戦いに赴く前から、 異常なほど死にまつわる話がつきまとっているんですね。
と言うのも、 1930年より軍港ウィルヘルムハーフェンで建造が開始されてから、通常ではあり得ない頻度で事故を繰り返しましてね、 建造中の船が突然横転して61名の作業員の命を奪ったり、 度重なるボイラーの爆発や、艦長になるはずだった人物が心臓発作で突然死しているんですよ。
そうした悲劇を乗り越えて、1936年にようやく船は完成し、 アドルフ・ヒトラーを迎えて進水式を行う事になったんですがね、その前夜、船が勝手に台座を離れて海中に飛び込み、数席のボートを木っ端微塵に粉砕するってなハプニングが発生したり、 進水式でシャルンホルストの洗礼役を務めた少女が変死するってな嫌な事件が起こったそうなんだなあ。
ヨーロッパでは軍艦に限らず船を作った場合、 抽選で選ばれた女性が洗礼親となって、祝福の言葉を述べて航海の安全を祈るってな儀式があるんですがね、 その洗礼親になった14歳の少女が進水式の数日後、謎の文字を書き残して手首を切って自殺しているのが発見されたんですよ。
こりゃ海軍の名誉にも関わるってな事で、冷血非情でお馴染みの秘密警察ゲシュタポが捜査に乗り出し、 遺書らしきその文字も調べられたそうなんですがね、 古代語のルーン文字に近い言葉で「私は魅せられました」「護りなさい」と書かれているらしい事が分かった以外は、 その内容の意味や何故彼女が死んでしまったかは明らかにならなかったそうです。


生き残ったシャルンホルストの乗員▲

生き残ったシャルンホルストの乗員▲
でもって、第二次大戦勃発後も事故は続くんですよ。
ポーランドのグダニスクを攻撃中、大砲が暴発して9名が死亡し、 さらに砲塔に11名が閉じ込められて全員が窒息死したんですね。
1940年にはオスロ封鎖作戦に参加して被弾し、300名の乗員が死亡。
でもって、修理の為に帰港の途中、ドイツの巨大客船ブレーメン号に衝突して客船を海の藻屑と化させてしまったそうなんですね。
そして1943年12月、イギリス海軍の攻撃によりシャルンホルストはついに撃沈され、 約1400名の乗員が船と命を供にする事になってしまったんですね。
かろうじて36名が陸地に逃れたものの、 そのうち2名は点火した救命ボートの非常用ヒーターが爆発して、命を失ってしまったそうです。

死亡フラグが乱立し過ぎて少年探偵も逃げ出すレベルじゃな。

戦時中は人の生き死にが日常的になるとはいえ、 あまりにも天から見放されてますよね。

一体何人が「俺、この戦争が終わったら結婚するんだ」みたいな事言ったんでしょうね・・・。


【妖刀・村正】

徳川美術館所蔵の村正▲

徳川家康の肖像画(しかみ像)▲
三方原で武田軍に追い詰められ、命からがら浜松城に逃げ帰るも、 恐怖のあまり馬上でうっかり脱糞し、苦渋の表情を浮かべる様を自身の戒めの為にあえて描かせたものだ。

徳川家康の肖像画(しかみ像)▲
三方原で武田軍に追い詰められ、命からがら浜松城に逃げ帰るも、 恐怖のあまり馬上でうっかり脱糞し、苦渋の表情を浮かべる様を自身の戒めの為にあえて描かせたものだ。
徳川家に祟りをなしたとされる村正は、 「抜けば必ず血を見る」「所持者に祟る」とか言われた希代の妖刀なんですよ。
そもそも村正ってのは、伊勢の国桑名(現在の三重県桑名市)で3代に渡り村正と銘を切った刀匠の事でしてね、 まあ刀におけるブランドみたいなもんですね。
この刀が徳川家に度重なる災いをもたらすようになったのは、徳川家康の祖父・松平清康の時代に遡りましてね、 天文4年(1535年)、清康は織田信秀(信長の父)と対陣中、尾張守山(森山)の本陣で側近の阿部弥七郎に殺害された。
この時使われた刀が村正だったんですね。
天文18年(1549年)には、清康の子すなわち家康の父・広忠が、やはり村正の脇差で岩松八弥に暗殺されてしまうんだ。
家康自身も幼少の頃、村正の短刀で傷を負い、 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦の際にも、功を挙げた東軍の武将織田長孝が所持する 村正作の名槍を手にして指を切った。
天正7年(1579年)には、妖刀は家康の長男・信康に襲い掛かり、信康が甲斐武田氏に内通しているとの噂が流れ、 当時同盟関係にあった織田信長が家康に信康の処分を命じたんですね。
その結果、信康は遠江二俣白で切腹する事になり、介錯人は服部半蔵と決められたんですがね、 半蔵が躊躇した為、代わりに検視役の天方道綱が信康の首をはねた。
でもって、やはりその刀が村正だったんですよ。
さすがの家康も呪いを恐れ、 『徳川実記』なる文献で「さてもあやしき事もあるものかな。いかにしてこの作(村正)の当家に障る事かな。この後は差料の中に村正あらば取捨てよ」とあるように、関ヶ原合戦後、 家臣に村正の所持を禁じたそうなんですね。
こうした動きから、 世間でもだんだん忌避されるようになり、民間に残った村正も銘をすり潰したりして隠滅されたってな話ですよ。

こりゃホトトギス鳴くの待ってる場合じゃないですねえ。

家康も恐怖でウンコ漏らさざるを得ないっちゅー訳じゃな。

400年も経ってんだから、もうそっとしてあげましょうよ・・・。

村正の妖刀伝説は後世の創作に過ぎず、実際には家康は村正をどちらかと言うと気に入って愛用していたともされているし、 単に徳川家の武器として村正のシェアが高かった為、 何か不吉な事が起こった際にも村正が使用されていたというのも、当たり前の事だと言える。


【呪われた宝石ホープ・ダイヤモンド】

持ち主を次々と不幸にするホープ・ダイヤモンド▲

装飾をはずした状態のダイヤ▲

装飾をはずした状態のダイヤ▲
アメリカのワシントンにあるスミソニアン博物館にはね、所有した者は必ず不幸に見舞われるってな、呪われた宝石ホープ・ダイヤモンドがあるんですよ。
映画『タイタニック』で主人公の女性が身につけていた大粒ハートシェイプ・ダイヤモンドのペンダントのモデルとも言われているんですがね。
そもそもこの青いダイヤは9世紀頃、インドの西北部ガット山脈のバルカット峠の麓にあるゴルゴンダって場所で、ある農夫が畑を耕していた際、偶然クワにカチンと当たって掘り出されたものらしいんですね。
早速農夫は宝石屋に鑑定してもらったところ、なんと279カラットもあったそうでね、彼は1日にして大金持ちになり、有頂天になった。
でも、その幸運は長くは続かず、ある時、ペルシアの軍隊が村に攻め入ってきて、農夫は必死にダイヤを握り締めて抵抗したものの、あっさり手首を叩き切られて奪われてしまったそうなんだ、うん。
で、インド遠征から凱旋したペルシア軍の隊長は、ダイヤをペルシア王のシャー・ゼハンに献上し、大喜びされた。
シャー・ゼハン王は、「我が王国とこのダイヤのどちらかを選ぶかと聞かれれば、迷わずダイヤを選ぶ」とか言った程の惚れこみ様だったそうなんですがね、ところが、その隊長は、その後間も無く謎の自殺を遂げてしまったそうなんですよ。


ジャン・バティスト・タヴェルニエ▲

ジャン・バティスト・タヴェルニエ▲
それからしばらく時は流れて17世紀、1666年にインドを旅していたフランス人貿易商にして探検家のジャン・バティスト・タヴェルニエが、古都べーガンのヒンズー教の寺院にあった、ラマ・シータという仏像の胸(額や瞳とも)に埋め込まれていたこのダイヤ(この時は112.5カラットに)を密かに盗んだそうで、これが更なる悲劇の始まりだったんですね。
その2年後の1668年に、このダイヤは他の数個と共にフランス王のルイ14世に献上し、タヴェルニエは爵位と250万フラン(数十億円)という大金を得たんですが、その4ヶ月後、彼は全財産を失ってしまい、再度出かけたロシアの荒野で、野犬の群れに食い殺され、無残な死を遂げる。
一方、ルイ14世は、ダイヤを1672年に68.8カラットの見事なハート型にカットし、「フレンチ・ブルー・ダイヤモンド(フランスの青)」と名付け、家宝として大切にしたそうです。
でもね、この時からブルボン王朝を次々と不幸が襲う事になったんですね。
まず、ルイ14世は間も無く天然痘により病死し、ダイヤを彼から借りてヴェルサイユの夜会に出た愛人のモンテスパン侯妃は、夜会の途中で突然「苦しい!」と叫んで気を失った後、王妃を凌ぐ権勢を誇っていた彼女は、毒殺事件に関与した事が発覚した為、宮廷から追放されてしまったそうです。

金持ち共が次々と落ちぶれていくのはメシがウマいのう。

真顔でドス黒い発言せんで下さいよ・・・。

やっぱり美しい物にはトゲがあるって事なんですかね。


斬首刑に処される残念なルイ16世▲
皮肉な事に、人道的な処刑器具としてギロチンの導入が検討された際、刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言をしたのは彼自身であった。

斬首刑に処される残念なルイ16世▲
皮肉な事に、人道的な処刑器具としてギロチンの導入が検討された際、刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言をしたのは彼自身であった。
その後、ダイヤはルイ16世の手に渡り、彼はそれを妻のマリー・アントワネットに与えた。
ところが、王も王妃もその後、1792年のフランス革命で処刑されちゃうし、王妃からダイヤを時々借りていた親友のランバル侯妃は、革命の際に暴徒に八つ裂きにされてしまったそうなんですよ。
で、ダイヤは革命の混乱の中で一時姿を消したんですが、1800年になってオランダのアムステルダムの宝石研磨師のファルスの手に渡ったそうです。
ところが、ファルスの息子がこのダイヤを父から盗んで売り飛ばしてしまった。
したら、その息子は気が狂って自殺してしまい、ファルスも極貧のうちに死亡、それを買い取った相手は喉に肉をつまらせて窒息死、更に、1830年にダイヤを手に入れたイギリスの実業家エリアソンは、馬から振り落とされて死んでしまったそうなんですね。
やがて、何度も加工と研磨され、最終的に44.5カラットになったダイヤはロンドンに持ち込まれ、銀行家のヘンリー・フィリップ・ホープってな人物にオークションで競り落とされ、ダイヤは彼にちなんで「ホープ・ダイヤモンド」って名付けられたんですね。そのまんまですが。
でも、やはり彼はその後数々不幸に見舞われ、破産して死亡。
彼の息子のフランシス・ホープと結婚した歌手のメイ・ヨーも、その後、夫と離婚し、貧困のうちこの世を去り、彼女は生前、「人生がうまくいかないのは、あのダイヤの所為」とこぼしていたそうで、また、ダイヤの所有権を巡ってホープ一族内で訴訟が起こる程になり、結局一族は半年後に破産しちゃったそうなんですね。

希望(ホープ)というより絶望という名がふさわしいがな・・・!

大して上手い事言ってないのにドヤ顔するのは止めて下さいヨ。

呪いよりも本当に怖いのは、人間の欲望なのかもしれませんね・・・。まあダイヤは欲しいですが。


マクリーン夫人のエヴァリン▲

マクリーン夫人のエヴァリン▲
で、このダイヤは1851年に、クリスタルパレス博覧会でディスプレイされた後、1906年に、遊び人のロシア皇太子イワン・カニトフスキーの手に渡ったそうなんですがね、愛人のフォリー・ベルジュール劇場の踊り子であったマドモアゼル・ラドルを、嫉妬に駆られ出演中に撃ち殺した後、彼自身はロシア革命党員の一団に撃ち殺されてしまったそうなんですよ、ええ。
その後、エジプトの商人も汽船の衝突によって不慮の死を遂げ、ギリシアの宝石商は餓死をする寸前にこのダイヤモンドを売ったそうです。
1909年にダイヤを買ったのは、旧トルコ皇帝のサルタン・アブドゥル・ハミド2世だったそうなんですがね、当時のオスマン帝国は崩壊寸前で、しかも彼は半狂乱状態だった為、「ダイヤに呪われた王」とか呼ばれていたそうです。
また、ハミド2世は寵児のサマラ・ズバヤにダイヤを贈りますがね、彼女はこの皇帝に殺されてしまったそうで、1911年には、革命で命を脅かされたアブドゥルは退位するはめになり、帝国も崩壊してしまった。
その後、ダイヤは数人のディーラーの手を経て、有名なフランスの宝石商ピエール・カルティエに18万ドル(約3億6千万円)で買い取られた。
で、カルティエはホープ・ダイヤの周りに他のダイヤモンドをセッティングしたネックレスに作り変え、すぐに当時の「ワシントン・ポスト」誌の新聞王であったエドワ-ド・ウォルッシュ・マクリーンに売り渡し、その所有者は妻のエヴァリンとなった。
エヴァリンは無類の宝石好きで、変わり者でもあったそうでしてね、呪いの噂なぞ信じず、このダイヤを身に付けたそうなんですがね、やはり不幸が襲う事になった。
夫妻の9歳の息子ヴィンソンは自動車にはねられて死亡し、夫エドワ-ドは政治的スキャンダルに巻き込まれ、夫人と離婚し、精神を患い、療養所で亡くなり、娘は25歳の時に、睡眠薬を飲んで自殺し、エヴァリンは風邪をこじらせ肺炎になり、1974年に死亡。
その2年後の1949年に、ニューヨークの宝石商ハリー・ウィンストンがホープ・ダイヤを含むエヴァリンの全ての宝石をを購入し、10年間慈善金を集める為、ホープダイヤを様々な展示会に出品したそうです。


スミソニアン協会に寄贈されたダイヤ▲

スミソニアン協会に寄贈されたダイヤ▲
ハリー・ウィンストンは約10年近くこのダイヤを所有したそうで、その間、4度も交通事故に遭遇し、事業に失敗し、破産寸前にまで追い込まれたそうなんですがね、とうとう1958年11月10日に、彼はスミソニアン協会に寄贈したんですね。
この時、ウィストンは安全を考えた結果、普通郵便で送ったそうです。
こうして、呪われたダイヤは安住の地に辿り付いたんですね。
その後、それまで44.5カラットと伝えられていたこのダイヤなんですが、分析の結果、訂正されて45.52カラットとなり、目で見る事の出来るブルー以外にも、すみれ色の色素が見つかり、更に、通常のダイヤモンドには滅多に見られない、紫外線を当てると色が変化し、紫外線を離してもその色が残る燐光という性質を持っている事が判明したそうです。
ちなみにですね、所有はしなかったものの、マリリン・モンローが主演映画の撮影の中で、このホープ・ダイヤを身につけたそうですよ。
そして1962年に、彼女も不可解な死を遂げたってな訳ですよ。

スミソニアン博物館は崩壊しないんデスか?

ホープ・ダイヤは博物館の目玉となって、たくさんの観光客を呼んでいますからね。
むしろ博物館にとっては幸運な存在になってるっぽいですよ。

えー、でも、これまでの法則的に、所有してるんだから、何か不幸が見舞われてもおかしくないですよね。
例えば、博物館の建物が構造計算書偽造だったとか、アスベスト満載だったとか。

呪いより、そっちの方が恐えよ。


若い頃のルイ=フランソワ・カルティエ▲
紳士にも程がある出で立ちだ。

若い頃のルイ=フランソワ・カルティエ▲
紳士にも程がある出で立ちだ。
フ、性懲りも無く、また呪いだのと・・・。
いいかい、この持ち主が次々と悲劇的な死を遂げるとされるダイヤモンドの話は、実は殆どが後に脚色されたり、こじつけられたりしたものなのだよ。
このホープ・ダイヤモンドの存在は、古くからそれと思われるブルー・ダイヤにまつわる話が残っているが、原石の状態だったりカットの形が違っていたりして、確証は得られていない。
また、このダイヤは次々と転売され、持ち主を変えたが、その中の数人が不幸な最期を遂げたという話が、いつの間にか持ち主を悲劇に陥れる呪いのホープ・ダイヤとして定着してしまったのだ。
そもそも、これらの話は宝石商カルティエの創作だったのでないかとも言われている。
カルティエは、ホープ・ダイヤモンドをマクリーン夫人のエヴァリンに売りたかったのだが、彼女がある時、「他人には不吉な物が私には幸運を呼ぶ」と言った為、カルティエは夫人に興味を持たせるべく、この話をつけたと考えられるのだよ。
また、ハリー・ウィンストンは、ホープ・ダイヤモンドを持って世界中を旅をしたが、別に大した不幸には遭っていないし、交通事故や事業が失敗したのだって、単に彼の注意力や経営力が不足していたに過ぎない。
何より、ウィンストン家は現在も世界的な宝石商であるしね。


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