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[2013.01.12]

オーパーツ
~超古代の場違いな工芸品~



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アイヴァン・T・サンダーソン博士▲

アイヴァン・T・サンダーソン博士▲
オーパーツ(OOPARTS)とは(Out Of Place Artifacts)の略であり、日本語では「場違いな工芸品」や「時代錯誤遺物」と訳される、イギリス出身でアメリカ人の動物学者アイヴァン・T・サンダーソン博士によって作られた言葉である。
これは、現代考古学の常識と大きくかけ離れ、その当時や場所では有り得ない、または考えられない程に高度な技術や知識が用いられて作られた遺物の総称だ。
これまで、人類の文明の起源は世界4大文明(エジプト文明、黄河文明、インダス文明、メソポタミア文明)だと考えられていましたが、公式測定された年代当時の科学技術を遥かに超えたそれらの品々が近年世界各地で発掘・発見されている事によって、この定説は疑問視されつつある。
現代の我々が想像しているより、ずっと高度な文明が過去に存在していた可能性が考えられるのだよ。

ほう、これまた随分と小柄で毛深い博士なんじゃな。

キツネザルじゃねえよッ!ってか普通は見間違えねえよッ!

なんか博士も「ほら、怖くない」って感じですね・・・。


【黄金シャトル】


黄金シャトル▲
黄金ジェット、黄金スペースシャトルとも呼ばれる。

黄金シャトル▲
黄金ジェット、黄金スペースシャトルとも呼ばれる。
18世紀中頃、南米コロンビアのシヌー地方の約3000年前のプレ・インカ文明の遺跡から、黄金製の装飾品が20点以上発見された。
作られたのは西暦500~800年頃とされ、全長は約6~10cm位と様々で、幅5cm、高さ1.5cm程のこの装飾品は、発掘当初、王族が使用したペンダントであり、鳥や昆虫を模した動物形態像と目されていた。
だが1969年に動物学者のアイヴァン・T・サンダーソン博士が、動物学上、既知のいかなる種類のものとも似ていない上に、機首、コックピット、主翼、胴体、垂直尾翼、水平尾翼を思わせる構造から、この装飾品が現代の航空機と酷似している事に気づき、三角翼ジェット模型説を発表した事により、話題を振りまいた。
これが「オーパーツ」の命名のきっかけになった事でも有名だ。
サンダーソン博士は、この装飾品の検証をベル式ヘリコプターの設計者アーサー・ヤングや、ニューヨーク航空研究所のアーサー・ポイスリー博士らに依頼した。
その結果、「この物体は、形態とバランスが航空力学の理にかなっており、間違いなく、ジェット機かロケット式、あるいはそれ以上の未知の推進原理に基ずく、古代の航空機の模型である」との見解がなされ、風洞実験でもジェット機同様の空力結果が得られた。
さらに、「この物体は高空から降りてくるべき構造になっており、降下する時は機首のエンジンを逆噴射して減速し、着陸時には機首を胴体部分へ180度折り、後方噴射によって上昇力をつけたのではないか」とも推察されている。
つまり、地球の大気圏を出入りするスペースシャトルの模型に近いそうだ。
同様の黄金の装飾品は、現在までにコロンビア、ベレズエラ、エクアドル、ペルー、コスタリカ等で合わせて2万5000点以上も発見されており、コロンビアの首都ボコダにある国立銀行黄金博物館に展示されている。

土産屋に300円位で売ってそうじゃがな。

こんなんが沢山あるって事は、古代人は空飛びまくりだったって事なんですかねえ・・・。


タイガープレコストマス▲

タイガープレコストマス▲
実はこの装飾品は、ある動物を象ったものじゃないかって説があるんですよ。
その動物とは、プレコという南米に生息するナマズの事で、種類が多く形状も特徴的で美しい模様をしています。
まあ、そこらの熱帯魚屋でも安く売ってますがね。
このプレコの胸ビレは、装飾品のデルタ型の主翼部分、上方にそそり立っている尾ヒレは、大きな垂直尾翼、更に左右に開いた腹ビレは水平尾翼部分にそっくりです。
つまり、結局の所、この装飾品の正体は動物形態像だったという事は確実だと思われます。

そ、その通りだよ、うむ。私もそれが言いたかった。

さっき、「いかなる種類のものとも似ていない」って言ってたじゃん。

それはサンダーソン博士の意見であって、私の意見では・・・。

何が古代のスペースシャトルじゃよ。黄金ナマズじゃねーか。


【アンティキティラ島の機械】

錆びて金属の塊となった古代の歯車▲
「最古のアナログコンピュータ」、「アンティキティラの歯車」とも呼ばれる。

内部構造の図面▲

内部構造の図面▲
1902年5月17日、エーゲ海にあるギリシャのアンティキティラ島沖合、水深約40mの海底に沈んでいた難破船から、考古学者スパイリドン・スタイスが、目盛りや文字が刻まれた青銅製の歯車を4個発見した。
一番大きな歯車は直径12.7cmで、海水によって表面の腐食は進んでいそうだが、一部に古代ギリシャ文字で、暦に関する記述や星座名が確認出来たそうだ。
また、同じ場所から見つかった他の遺物から、それが紀元前82年の古代ギリシャ文明のものである事が判明し、回収された歯車は今から約2100年前の紀元前150~100年に作られたものと推定され、アテネ国立考古学博物館に保管された。


X線で撮影された歯車内部▲

X線で撮影された歯車内部▲
1973年になって、イギリスのケンブリッジ大学で科学史を研究していたデレク・ディソラ・プライス博士が、X線で歯車の内部の構造を調査した結果、何重にも重なった32枚の歯車を発見した為、古代ギリシャ文明の技術では、数枚の歯車を使った初歩的なものしか存在しなかったという、それまでの推測を打ち破った。
また、その歯車の内部には1575年にドイツで作られた天文時計で初めて使用されたとされる差動歯車機構という技術も使われていたそうなのだ。
この技術は、回転の組み合わせによって、回転数や回転スピードが変るシステムであり、プライス博士がその回転比を解析してみると、天動説における地球を中心とした太陽と月の公転比(19:235)と一致したのだ。
つまり、古代ギリシャ文明の天文学者は、太陽が地球の周りを19周する時、月は地球の周りを235周する事を既に知っており、星座名や暦に関する記述が表面に書かれている事から、この歯車の正体は、自動的に日付を合わせて太陽や月の位置を計測する天球儀だと考えられるのである。

パッと見はゴミ捨て場に落ちてそうな感じなのにな。

もっと空気読んだ言い方せんかいッ!

でも、古代のギリシャで、そんなハイテクなの作れたんですかねえ?


実物はアテネ国立考古学博物館の青銅器時代区画に展示されている▲

実物はアテネ国立考古学博物館の青銅器時代区画に展示されている▲
古代だからって、ナメちゃいかんよ君。
アメリカ軍事大学のロブ・ライス博士によると、最近の研究で、残された文献を元に、世界中で古代ギリシャの品を再現するという試みが行われ、その結果、当時の技術力は現代の我々の想像以上に高度であったらしい事が分かってきたのだよ。
プライス博士も1年近くの時間をかけて、この歯車式機械を復元した。
この歯車は発見当初、木片の残骸が周りに付着していた事から、木箱に入っていたと考えられ、復元された機械の 箱の表側には、地球を中心にして、太陽と月の位置を表す表示板、裏側には日付を表す2つの表示板が取り付けられており、箱の横に取り付けられたクランクハンドルを回して、裏側の表示板に好きな日付を合わせると、表側の表示板に、その日の地球から見た太陽と月の位置が誤差100分の1度の正確さで表示されるのだよ。

裏に「メイド・イン・チャイナ」って刻まれて無くて良かったな。

ある訳ねえだろッ!

なるほど、これはジョブズもゲイツもビックリですね。


復元されたアンティキティラ島の機械▲

復元されたアンティキティラ島の機械▲
また、2008年6月30日発行の英科学雑誌『ネイチャー』にて、 トニー・フリース博士を中心とする「アンティキティラの機械研究プロジェクト」に参加している研究グループが発表した論文により、 76年のカリポス周期を表すと考えられている青銅の表示盤上に「Olimpia」の文字を発見した事が明らかになりました。
これはギリシャ語でオリンピックを意味し、 つまり、アンティキティラの機械は天体の動きだけでなく、4年に1度の閏年を示す事で、 オリンピックの開催年を知らせる役割を果たしていたとの事で、 フリース博士は「閏年に開催されていた古代オリンピックは社会的に非常に重要な行事であった為、 その開催日時を正確に知る事が必要だったのではないか」と述べているそうです。
また、この機械が貨物船に積まれた経緯は不明ながらも、 研究者達は、機械はギリシャで作られたもので、 沈没した船は当時この機械をジュリアス・シーザーによる凱旋式を称える為、 この島から略奪されたその他の財宝と共にローマに運ぶ途中であったのではないかと考えているそうです。


【パレンケの石棺】

パレンケの石棺▲
その様子からパレンケの宇宙飛行士とも呼ばれる。

石棺の彫刻画をトレースした図▲

石棺の彫刻画をトレースした図▲
1952年6月15日、メキシコ、チアバス州北部パレンケの熱帯ジャングルの中にあるマヤ文明の「碑銘の神殿」と呼ばれる遺跡の地下で、メキシコ国立人類学研究所のアルバート・ルース・ルイリエル博士が、パカル王が納められた巨大な石棺を発見した。
石棺は縦3m、横2.1m、高さ1.1m、重さ20tの一枚岩をくりぬいたもので、重さが5tの蓋の表面には、なんと、まるで宇宙船の様な飛行機械を操縦する感じのパイロットの彫刻画があったのだ。
パイロットは右手に計器を、左手にレバーの様なものを操作しており、鼻には酸素呼吸器の様なものをつけ、座席の後方にはエンジンやシリンダーの様なものが、その後ろには4本の排気筒の様なものがあり、外に向かって炎が噴き出ているのが確認出来る。
紀元7世紀という時代に、この様な機械が存在するはずが無いというのにだ。
イギリスの航空技術専門家J・I・サンダーソン博士は、この飛行機械の復元を試み、アメリカに特許出願されている、タキオン駆動式の航空機の構造に似ていると発表している。

パイロットってよりは、改造バイクに乗った近未来の珍走団って感じに見えるがな。

ピーキー過ぎるやつですね、分かります。

・・・やはり、やはりそうか!
恐らく、この彫刻画はUFOを操る異星人を描いているんだよッ!
彼らが遥か昔に地球上に降り立ち、人類に文明を授けていたとすれば・・・!時代にそぐわない科学力の産物にも全て説明がつく!

にしても、異星人は何で上半身裸なんですかね?素足だし。

それはお前・・・な、夏場だったんだよ!


縦にすると、全然違う印象に見える▲

縦にすると、全然違う印象に見える▲
え~、実はですね、この彫刻画、横じゃなくて、縦に見るのが正確だそうなんですよ。
ほら、こうすると、てっぺんに鳥みたいのが見えてきません?
これは、密林の鳥ケツァールをモデルにしていると言われ、マヤ世界の中では、「生」を象徴する鳥なんだそうです。
この他にも、人の顔や蛇等の生き物が描かれており、彫刻画を縦で見る事を示唆しています。
また、ケツァールの反対側に、「死」の象徴である大地の神が、中央で宙吊りになった男(多分パカル王)を、口を開けて待ち構えているという構図から見て、この彫刻画の正体は、死に行くパカル王を象徴的に描いたものだと思われます。

だ、そうですよ。

・・・・・・。


【バグダッドの古代電池】


バグダッドの古代電池▲
1978年に西ドイツのヒルテスハイム博物館で開催された「シュメール・アッシュール・バビロン展」で、 「パルティア時代の電池と推定される器具」として展示された事で広く世間に知られる事となった。

バグダッドの古代電池▲
1978年に西ドイツのヒルテスハイム博物館で開催された「シュメール・アッシュール・バビロン展」で、 「パルティア時代の電池と推定される器具」として展示された事で広く世間に知られる事となった。
1937年、イラクの首都バグダッド南西郊外クジュトラブアの丘にある約2000年前の古代パルティア王朝時代に建てられたホイヤットラブヤ遺跡から、奇妙な壷が20個発掘された。
壺は粘土製で、高さ15cm、幅9.2cmで、中にはアスファルトの残留物が溜まっており、それに固定された長さ10cm、直径2.6cm程の、ハンダの様なもので溶接された銅製の円筒物と、腐食が激しい鉄棒が1本入っていたそうだ。
この壺はイラク国立博物館研究所に送られ、当時そこの責任者だったドイツの研究者ウィルヘルム・ケーニッヒ博士によって調査される事となった。
その後まもなく、今度はグジュトラブアからさほど遠くない古代都市セレウキアの遺跡からも、同様の壺が4個発掘された。
これらは、考古学者達が「魔術師の小屋」と呼んでいた場所から出土したもので、こちらでは一緒に細長い鉄と青銅の棒が何本かが出土したそうだ。
そしてケーニッヒ博士は、この壷を入念に調査した上で、「これは古代の電池である」との驚くべき結論を出したのだよ。
そもそも電池は、1800年にイタリアの物理学者アレッサンドロ・ボルタによって史上初めて発明された事になっているが、それよりも遥か昔に既に人類はこの技術を応用していたという事になるのだ。
ケーニッヒ博士によれば、この壺が作られたのは紀元前1世紀~紀元後1世紀辺りで、銅製の円筒物は1枚の銅板を巻いたもので、腐食した鉄棒は、円筒の上部から1cm程出した状態で垂直に宙づりにされ、周囲の銅に触れない様にアスファルトの詰めもので固定され、これらの装置全体が壺の中に固定された構造だったと考えられるという。


発見された壷と内部にあった銅製の筒及び鉄棒▲

発見された壷と内部にあった銅製の筒及び鉄棒 ▲
また、鉄棒の腐食の原因は、硫酸、酢酸、クエン酸等の酸成分の電解液に浸されていたからだそうだ。
(ただしケーニッヒ博士は考古学者ではなく、本職は画家であった為、実際の壷の製造時期は紀元後3世紀から7世紀に辺りであり、考古学的にはパルティア時代ではなくサーサーン朝の様式であるという見方もある)
この説は第2次大戦後、アメリカのゼネラル・エレクトリック社高圧研究所の電気技師ウィラード・グレーと高名な科学史家ウィリー・レイの共同研究によって裏づけられた。
彼らは土壺のレプリカを作り、銅の円筒内に硫酸、酢酸、クエン酸のどれを入れても1.5ボルトから2ボルトの電気を発生させる事に成功したのである。

へえ、電池ってそんなに大昔からあったんですね。
でも、今のと比べるとデカ過ぎてちょっと邪魔っけですね。

たまにおばあちゃんちの床下とかでも発掘されるよな。


レプリカによる実験図 ▲

レプリカによる実験図 ▲
それはぬか漬けの壷ですよッ!
確かに鉄分として釘など入れたりしますけど・・・。
1970年には、西ドイツのアールネ・エッゲブレヒト博士が、壺のレプリカを使い、ブドウのジュースを銅製円筒に満たし、0.5ボルト程の電気で、シアン化金溶液中に浸した銀製の小さな像に、数時間で金メッキを施す事に成功しています。
壺が発掘された周辺は、古くより金メッキを使った宝石細工の産地として知られている事から、電池から発生する電気を利用し、銅等の上に金メッキ加工する為に使っていたとも考えられています。
現在でもバグダッドには、電解液槽を用いて起電する方法でのメッキ加工職人がいるそうですしね。
ただ、発見された壷が実際に電池として使われていたかどうかについては疑問の余地も結構ありまして、 実験で電気を発生させたというのも、発見された状態と異なる壷の上部を開放した状態での、 あくまで特定の条件下によるものであり、 発見時と同じくアスファルトで口を閉鎖した場合はすぐに電流が止まってしまったそうです。
また、壷が建物の基礎部分から発見されている事から、 実際は宗教的な祈祷文を入れて埋める壷だったのではないかという説もあります。
中に入っていた鉄の棒は巻物の芯として使われ、周りの銅製の筒は保護容器であり、 巻物に使われたパピルスが腐敗して無くなって、芯棒だけが残った為に電池によく似た構造になったのではないかとも考えられているそうです。


【コソ加工物】

コソの点火プラグとも呼ばれる加工物▲
スミソニアン博物館などがこれを引き取る事を検討していたが、所有者が2万5000ドルと引き換えの売却を要求した為、何処も引き取らず、現物は行方不明となっている。

X線による断面図▲

X線による断面図▲
1961年2月13日、アメリカのカルフォルニア州オランチャ北東約10kmにあるコソ山脈で、男女3人の鉱石収集家が発見した晶洞石を割った所、なんと中から直径1.9cmの加工物が現れたのだ。
その加工物は、中心が直径2mmの金属の軸が通ったセラミック製のシャフトで、化石化した六角形の木製の筒に包まれ、筒とシャフトの間の一部に腐食の激しい銅版のスリーブが挟まっていたそうだ。
中心の金属は磁石に反応し、ダイヤ製のノコギリの歯がボロボロになる程硬かったという。
そしてこの加工物は、自動車用の点火プラグによく似ている為、古代の点火プラグではないかと言われ、奇妙な物体を調査研究しているチャールズ・フォート協会に送られ、X線による検査をされた結果、紛れも無く人の手により作られた物であるが、付着していた貝の化石から、なんと50万年以上前のものと結論付けられたのだよ。

って事はお約束通り大昔に誰かがコレを作ったって事になりますね。

古代のつま楊枝入れなんじゃね?

んな訳ねえだろッ!
実はこれ、ホントに点火プラグだったっぽいんですよ。
ピエール・ストロンバーグとポール・ハイリッヒという人物は、この加工物の調査を行おうとしましたが、しかしその時は、現物が行方不明になってしまっていた為、仕方なく彼らは、点火プラグに似ているという事から、とりあえず点火プラグのコレクターである4人に見解を聞く為に手紙を出したそうです。
すると手紙の返事は、全員「1920年代にチャンピオン社で作られた点火プラグに違いない」との事だったのです。
そもそも、この加工物は晶洞石から出てきたとされていましたが、実はその特徴を備えておらず、モース硬度3(爪よりやや硬い位)と報告されており、晶洞石とは考えられません。
しかも、発見者自身が「硬くなった粘土の様だ」と語っていたそうです。
また、50万年以上前という年代測定は、発見者が「匿名の地質学者からそう言われた」という話が残っているだけの、噂話程度らしいですよ。
つまりこの加工物の正体は、1920年以降に落とされた点火プラグに泥がくっついて固まったってだけという事です。

最初に犯人だと思った奴が犯人だったみたいな感じですね・・・。

ガンプラのパーツとかも、数千年後に発掘されたら超テクノロジーの産物とか言われそうじゃな・・・。


【錆びない鉄柱】


デリーの鉄柱▲
チャンドラヴァルマンの柱とも呼ばれる。

デリーの鉄柱▲
チャンドラヴァルマンの柱とも呼ばれる。
インドの首都、ニューデリーから南に12km程の所に、メハラウリという村がある。
ここのイスラム教寺院クトゥブ・ミナールの中庭には、「アショカ・ピラー」と呼ばれる1本の柱が建っているんだよ。
直径約44cm、高さ6.9m、地中には2m程埋もれた部分があり、重さは推定で約6t。
表面にはサンスクリット語の銘文が刻まれており、頂上には穴があいており、ヒンズー教のビシュヌ神が乗ったガルーダの彫像があったと言われている。
また、背中を鉄柱につけて立ち、腕を後ろに回して手を組めれば、幸運が訪れると言われていたが、残念ながら現在は柵で囲まれてしまい、出来なくなってしまったそうだ。
まあ、それはさておき、この鉄柱の不思議な所は、驚く事に、なんと1500年以上、風雨に晒されながらもこれまで錆びた事が無いのだよ。
鉄にとって錆は宿命的なもので、現代の技術では、ステンレス等の合金加工でしのぐ方法しかない。
現代の製鉄技術や鋳造技術を用いても、純度が100%近くで錆びない鉄を作る事は不可能なのだ。
日本の法隆寺にも1300年間錆びなかったとされる釘が使われているが、これは700度以上の高温で熱し、急激に冷すという作業を繰り返した為に出来た物であり、1500年前のインドにはその様な技術は無かったはずである。


表面に刻まれたサンスクリットの碑文▲

表面に刻まれたサンスクリットの碑文▲
ところがこの鉄塔は、99.72%という高純度の錬鉄で作られており、α鉄に属する唯の不純物を多く含有する鉄に過ぎないにも拘わらず、錆びていないのである。
この鉄柱は、サンスクリット語の碑文に鉄柱頭の部分がアマラカ様式である事から、BC3世紀後半マウリヤ王朝の時代のインドに君臨したアショカ王により平和祈願を目的として製作されたものと推定されていたが、実際の建造年代はマウリヤ王朝よりずっと後の西暦4世紀のグプタ王朝らしく、本来は紀元前に史上初の統一をなしたチャンドラ・グプタを記念して紀元415年に他の場所に建てられたが、11世紀にこの地へ移し替えられたという事が判明している。

じゃ、何で「アショカ・ピラー」って呼ばれてるんですか?
本当なら「グプタ・ピラー」とかじゃないんですかね。

それじゃあ、「ダメだこりゃー」に似てるからダメなんじゃねえか?

全然違う。
アショカの名が語り継がれているのは、戦争の悲惨さを深く悲しみ、仏教思想に基づいた平和で豊かな国家の建国を目指し、多くの仏教徒から理想の王とされ、多くの伝説が生まれた為であろう。

実はこの鉄柱、厳密には全く錆びないってわけじゃないんですよ。
鉄柱の地下の部分はかなり腐食が進んでいるそうです。
スウェーデンの王立技術研究員のG・ウランレン博士は、この鉄柱がこれまで錆びなかったのは、この地方の気候による偶然の産物だとし、多くの人々が柱に触り、手の脂肪分がつき、それがコーティング作用を起こした為ではないかと唱えています。
しかし、移転前の土地であるビハールやムトラは、湿度の高い河川に近い土地ですが、そこでも錆びが生じたという記録はなく、また、人の手が触れる事が出来るのは、鉄柱の下部のみである事から、ウランレン博士の説では説明がつきません。
最近の研究で有力視されているのは、この地方で産出される鉄は不純物としてリンを大量に含んでおり、製造過程で鉄柱を叩く事により、リンと鉄が結合し、錆びにくいリン酸鉄となって表面を覆っていると言うものです。
また、古代インドでは鉄を熱する際に、リンを含むカッシア・アウリキュラータという植物の根を炉の中に加えていたって事も判明しています。
しかし、その当時リン酸鉄が錆びにくいという性質が知られていれば、他にも同様な鉄製品が大量に残っていてもいいはずなので、この説にも疑問は残ります。


【聖徳太子の地球儀】


聖徳太子の地球儀▲

聖徳太子の地球儀▲
日本の兵庫県揖保郡には、推古14年(西暦606年)に聖徳太子によって建てられた斑鳩寺という寺がある。
その寺には、太子ゆかりの品が数多く所蔵されているそうなんだが、その中に謎の球体があるんだよ。
大きさはソフトボールくらいで、球体の表面には、日本列島をはじめ、ユーラシア、アフリカ、南北アメリカ大陸ばかりか、なんと当時発見されていなかったはずの南極大陸の様なものまで刻まれており、その位置は現代の地球儀と比べても、かなり一致している。
この球体は、江戸時代から斑鳩寺に伝わる『常什物帳』という目録の中に、「地中石」と記載されていた事から、聖徳太子が作った地球儀ではないかと言われ、科学研究所による分析の結果、炭酸カルシウムの結晶である「カルサイト」と、「スサ」と呼ばれる繊維質が発見されたのだ。
この事から、この球体が、石灰岩を粉にしたものに水と糊を混ぜ粘土状にしたもので、古くから家の壁を作る建材として使われた「漆喰」という方法で作られたものである事が判明した。
さらに、その漆喰に使用されている糊の成分を分析したところ、江戸時代に使われ始めた海藻糊が検出されたそうで、この球体は聖徳太子が作ったものではなく、江戸時代以降に作られたものという可能性が高くなった。
また、球体の表面の南極と思われる部分に刻まれていた5つの文字が、「墨瓦臘泥加(メガラニカ)」と書かれている事が判明した。
これは、古代ギリシャ時代に南半球に巨大な未知の大陸が存在すると云われた架空の大陸を意味し、世界一周を成し遂げたマゼランのスペイン語名が由来であり、日本には1592年以降、ポルトガルの宣教師により伝えられたという。

純粋にウンコかと思ったヨ。

何処が純粋かッ!このクソ野郎ッ!

幼稚園の時の、粘土の時間を思い出すクオリティーですよね。
しかし、聖徳太子じゃないとすると、誰がこの燃えないゴミ地球儀を作ったんですか?


『和漢三才図会』の「山海興地図」▲
(画像クリックで拡大)

『和漢三才図会』の「山海興地図」▲
(画像クリックで拡大)
それについては、江戸時代の大阪の医者であった寺島良安という人物が有力とされている。
当時は石灰や海藻糊は薬として使用されていた事から、この球体は医者により作られた可能性が高く、また、寺島良安が書いた、日本初の百科辞典『和漢三才図会』の中に、「山海興地図」という地球の絵が載せられており、それが墨瓦臘泥加(メガラニカ)及び、他の様々な大陸の位置と一致していたのだ。
これらの事から、この地球儀は寺島良安が作ったのだが、何かしらの理由で斑鳩寺に献上された為、他の聖徳太子ゆかりの品とごっちゃになり、いつしか聖徳太子によって作られた物だと解釈される様になったと考えられるのだ。

なるほど、正確には「寺島良安の地球儀」じゃったんじゃな。
でも、このネーミングじゃ何か普通過ぎて、凄さを感じねーな・・・。

一般的知名度は低いので、「誰だそれ」って思いますよね・・・。
ところで、実はこの地球儀には、寺島良安の地図とも一致せず、地球上にも存在しない大陸が太平洋上に刻まれているそうです。
その大陸は、あの伝説のムー大陸があったとされる位置と一致しているんだとか・・・。


【ピリ・レイスの地図】


ピリ・レイスの地図▲
現存する部分は大西洋を中心に描いた左半分の断片。 (画像クリックで拡大)

ピリ・レイスの地図▲
現存する部分は大西洋を中心に描いた左半分の断片。 (画像クリックで拡大)
1929年、トルコの古都コンスタンティノープル(現イスタンブール)のトプカピ旧宮殿博物館でオスマン帝国公文書を調査していた学者が、保管棚から埃まみれのガゼル羊皮紙製の古地図の断片を発見した。
右半分は既に消失していたが、専門家の鑑定の結果、16世紀オスマン=トルコ帝国時代の海軍提督ピリ・イブン・ハジ・ムメド(レイス=提督)が、1513年に作成したポルトラーノ(航海地図)だという事が判明したのだ。
しかし、この地図はただの地図ではなかったのだよ。
地図の右側にはアフリカ大陸の西岸の一部、左側には南北アメリカ大陸の東海岸線、更に下端には、南極大陸の北岸の一部までが描かれていたのだ。
この地図が作成された時は、コロンブスのアメリカ大陸到達から20年程しか経っておらず、これらの海岸線の大半が完全に未知だったはずである。
中南米は発見されたばかりで、ろくに探索もされておらず、南極大陸に至っては発見されたのが1818年の事で、中世の時代にこの地図を作れるはずがないのだ。
しかし、この地図は現在の人工衛星から撮影した地上の写真と比較しても、驚くほど正確に描かれている。
しかも、航空用として使われるエジプトのカイロを基点とした正距方位図法という、16世紀当時は無かったはずの高等な数学知識が用いられていたのだ。
1956年、アメリカ海軍の海図専門家アーリントン・マレリー大佐は、この地図に描かれている南極大陸の北岸は、1949年にイギリスとスウェーデンの調査隊の地震波測定で判明した氷の下の真の地形と輪郭が細部まで一致すると発表した。
これらの事から、この地図の存在は、我々が知る歴史よりもずっと昔に、これらの大陸が発見され、探索されていた事と、地図が作成された当時に1600mもの厚い氷の下の地形まで分かる程の測量技術を持っていた事を物語っているのだ。

無駄に船たくさん描いてるのに、 この世の全てを置いてきた様な宝の在り処とかの情報は無しかヨ。

当時は大航海時代なので、もしかしたらもう半分に描かれてたのかもしれませんがね・・・。

オム・ライスは、一体どーやってこの地図を描いたんですかね?


ピリ・イブン・ハジ・ムメド▲

ピリ・イブン・ハジ・ムメド▲
ピリ・レイスだ。
実はだね、この地図の注釈には、1513年6月4日付で「ギリシャのアレクサンドロス大王の時代から伝わる20枚の古地図と、4人のポルトガル人の航海案内書と、コロンブスの書いた1枚の地図を参考にした」という意味の文章が書かれていたのだよ。
つまりピリ・レイスは、1511年から3年の月日を掛けて、自分の信頼できる古地図を全て複写し、編集したのだ。
だが、アレクサンドロス大王と言えば、地球は平面だと信じられていた紀元前4世紀の人だ。
ギリシャ時代の最も優れた地理学者とされたエラトステネスが作成した世界地図には、ヨーロッパ中南部からアフリカ北部、西アジアまでしか描かれておらず、しかも、かなり不正確である事から、当時の知識には南極大陸は存在していなかったはずなのである。
南極大陸が氷に覆われたのは約6000年前とされており、ピリ・レイスが参考にした原図はそれ以前に作成されたという事になり、謎が深まってしまうのだよ。

ピリ・レイスの頭デカッ!

キノコ王国の偉い人みたいになっちゃってますね。

そこはほっといてやれよッ!

アメリカ、ニューハンプシャー州キーン州立大学の地質学者チャールズ・H・ハプグッド教授は、学生による研究チームを指揮して、他の古地図類とも比較研究し、『古代の海の王たちの地図、氷河期における高度文明の明白な痕跡』という著書の中で、「ピリ・レイスの地図は、古代ギリシャ時代から伝えられた複数の原地図を元に作成され、その原地図は正確な部分地図であり、古代ギリシャ時代でも南極大陸を認識していた可能性は低く、これらの地図は何らかの文明から伝えられたものである」とまとめている。
そして、ハプグッド教授が結論として導き出したのが、約12000年前に一夜にして沈んだという伝説の超古代文明アトランティスの存在である。
彼は、かつて現在にも匹敵する程の科学力を持っていたというアトランティス文明は、氷のない南極大陸を知っており、それを地図に描き、ピリ・レイスの大航海時代まで現存していたと唱えているのだ。

ところで、そもそも本当にこのピリ辛ライスの地図は正確なんでしょうか?何かごちゃごちゃしててよくわからないんですが・・・。

わざと間違えるなよ、君はッ!
実はだね、先程あれだけ持ち上げといて難だが、この地図には南米大陸と南極大陸が地続きで描かれていたり、アマゾン川が2本あったりと、さほど正確に描かれていないのだよ。
また、南極大陸の氷の下の真の地形だが、1949年に行われた調査で判明した地形と似ているというだけなのである。
しかも、この地図の南極大陸と思われる地域には、ラマの様な動物やヘビが描かれているんだがね、南極大陸にはそのような動物が住んでいたという証拠は一切ないのだ。
では、地図に描かれていたのが南極大陸ではないとしたら、一体そこは何処だと思うかね?
この謎を解くカギとなるのが、地図が描かれたガゼル羊皮紙だ。
この紙はだね、ガゼルという動物の皮をなめして、毛と表皮を削り落としたもので、紀元前から中世の頃までの大切な文書の殆どに使われ、当時はかなり貴重な高級品だったのだ。
ピリ・レイスはこの羊皮紙に地図を描くのに3年もの歳月を費やしたというから、時間や金銭的な問題で、強引に1枚の紙に大陸を収めたと思われるのだ。
つまり、ピリ・レイスは地図を描いていたら、南アメリカ大陸の途中から紙の残りスペースが無くなってしまい、やむを得ず大陸を右下に曲げて描いたというわけだ。

さっき、「驚くほど正確に描かれている」って言ってたじゃんか・・・。

もっと計画的に描いて下さいよ・・・。

では、この南極大陸と思われた地域は、結局何処になるのかというと、一番有力と考えられているのが、南米大陸の南端にあるフエゴ島という所です。
この島はグアナコというラマに似た動物が生息している地域で、地図に描かれていた絵とも一致するのです。
さらに「灼熱の砂漠」という地名の表記もあり、これはコロンブスのアメリカ大陸到達以降の調査により明らかになっていた、南米大陸の太平洋沿岸部に存在する砂漠を指したものと考えられるそうです。
つまり、このピリ・レイスの地図は、羊皮紙がもったいなくて、南米大陸を曲げて描いただけの代物だったにも関わらず、 たまたま正距方位図法に似ていた為、現代の学者がオーパーツとしてしまったという事らしいです。


【ヴォイニッチ手稿】

解読不能の文書「ヴォイニッチ手稿」▲

しばしば描かれている公衆浴場で入浴する人々の様な絵▲
人物は全裸の為、服装から時代を特定する事が出来ない。

しばしば描かれている公衆浴場で入浴する人々の様な絵▲
人物は全裸の為、服装から時代を特定する事が出来ない。
1912年、イタリア・ローマ郊外の古都フラスカティのイエスズ会系施設、モンドラゴーネ大学図書館の書庫にて、ニューヨークの古書売買業者ウィルフレッド・M・ヴォイニッチ氏が、奇妙な書物を発見した。
それは縦22cm、横15cm程の羊皮紙本で、232ページ(現在は28ページが散逸し、バラバラな状態)にも及ぶ中身には、これまで見た事もない不思議な文字が使われ、また未知の幻想的な挿絵が描かれていたのだ。
中身は、全部で400通り以上の奇妙な植物や裸の男女の絵、渦巻きや内臓的な模様、星々や星座等が綿密に描かれ、間合いの余白は黒い文字でびっしり埋められていた。
図解の中には植物の葉や根の断面図があり、16種類だけはヨーロッパの在来種と確認されたが、その綿密なスケッチは顕微鏡が無ければ書く事は困難なものであった。
だが、15世紀当時はまだ顕微鏡は発明されていないのである。
また、アルデバランやヒヤデス星団、アンドロメダ星雲とおぼしき斑点模様や渦巻き模様も見つかったが、望遠鏡もまだ発明されていなかったはずである。


ウィルフレッド・マイケル・ヴォイニッチ▲

ウィルフレッド・マイケル・ヴォイニッチ▲
ヴォイニッチ氏は直感的に手稿の価値に魅せられた為、すぐにそれを購入して、アメリカに持ち帰った。
ヴォイニッチ氏はその後の研究で、挿絵に描かれた人物像の様子等から、手稿自体は西暦1470年~1500年頃に作成されたが、中身はもっと古代から筆写を重ねて伝えられてきたもので、中世の錬金術師か、植物学者が書き上げた科学書であると推測した。
また、共に発見された書簡から、手稿はかつてローマ帝国の奇人皇帝、ルドルフ2世が所有していた事が明らかになったのである。
さらに、書簡には、ヴォイニッチ氏が発見する以前にも、17世紀頃に2人の学者が手稿の解読に挑戦したが、いずれも失敗に終わった事が記述されていたという。
だが、ヴォイニッチ氏によって250年ぶりに発見された事により、この手稿は「ヴォイニッチ手稿」と呼ばれる様になり、再び世界中の学者に謎を投げかける事になったのだ。
その後ヴォイニッチ氏は、手稿のコピーをあらゆる分野の学者達、暗号の専門家に送り、解読を依頼した。
ところが、以後90年間に渡って、その時代における最高の解読者達を持ってしても、手稿の文字群を読み取る事は出来なかったのだ。
こうして、謎は全く解明されぬまま、手稿はヴォイニッチ氏の死後は妻の手元に保管され、その後ニューヨークの同業者に買い取られた。
そして、もし内容の解読に成功すれば、100万ドルの価値があるという秘密を抱え込んだまま、1969年にコネチカット州のエール大学付属バイネキー稀書手稿ライブラリに寄贈され、現在も図書館の片隅に、ひっそりと収納されているという。

一体何が楽しくてこんな意味不明なもの230ページ以上も書いたんでしょうね?

実はヴォイニッチ自身が昔調子こいて書いたポエム集なんじゃね?

そんな黒歴史の代物じゃねえよ!


一応に言語的な規則性は見受けられるものの、既存の言語とは異なるパターンの文字配列▲
日本帝国海軍の暗号を解読した 米軍の暗号解読者ウィリアム・フリードマンを始め、様々な研究者が解読に挑むも失敗した。

一応に言語的な規則性は見受けられるものの、既存の言語とは異なるパターンの文字配列▲
日本帝国海軍の暗号を解読した 米軍の暗号解読者ウィリアム・フリードマンを始め、様々な研究者が解読に挑むも失敗した。
しかし、一方では、この手稿の内容は単なるデタラメではないかとも言われている。
その理由として、この手稿の文法は、他のどの言語とも違う奇妙な特徴がり、非常に出現頻度の高い単語が連続して現れたりするのだ。
また、単語の長さや、単語内に現れる母音と思しき文字の出現位置が、現存する様々な言語と非常に似ているという。
つまりそれは、既存の言語を適当にデタラメな文字で置き換えた捏造言語だという可能性を表しているのだ。
だが、デタラメにしてはよく出来ているし、何より作成意図が不明である事から、デタラメ説に否定的な意見も多々ある。
イギリスのキール大学のコンピューター学者ゴードン・ラグ氏は、手稿が作られたと思われる16世紀のカルダングリルと呼ばれる暗号作成技術を用いて、徹底的に検証したそうだ。
カルダングリルとは、桝目の中に無意味な文字や音節を書き込んだ表を作り、その表の上にいくつか穴が開いたカードを被せ、穴を通して見えた部分をつなげて有意な文字列を生成するものである。


エドワード・ケリー▲
精霊と天使を呼び出す能力があると自称したが、イカサマの罪で後に投獄された。

エドワード・ケリー▲
精霊と天使を呼び出す能力があると自称したが、イカサマの罪で後に投獄された。
そして検証の結果、手稿の著者は中世の魔術師エドワード・ケリーなのではないかと結論したそうだ。
エドワード・ケリーとは、16世紀に実在したという錬金術師であり、また、偽造専門家、神秘主義者、傭兵、探検家、と多数の肩書きを持つ謎の多い人物である。
記録によれば1584年に、ケリーはルドルフ2世に謁見する為にプラハを訪れ、その時にこの手稿を3ヶ月かけて捏造し、500万円程度の高値でルドルフ2世に売りつけたのではないかと推測されるという。
だが、カルダングリルによって出来上がった文字群は、表層的には手稿に近づけられるものの、手稿に見られる程の規則性、言語的な構造を完全に再現する事は出来ず、そこに隠されたメッセージは見つける事は出来なかった為、この手稿が単なるデタラメであるとは断言出来ない。

魔法学校の校長みてーな格好しやがってこのペテン師が・・・。

いつの日か解読される時が来るんでしょうかねえ・・・。


エール大学の稀書ライブラリ職員が見守る中、サンプルを採取するホッジンス博士▲

エール大学の稀書ライブラリ職員が見守る中、サンプルを採取するホッジンス博士▲
なお、アリゾナ大学の物理学科の准教授グレッグ・ホッジンス博士らは、エール大学に協力を得て手稿の羊皮紙のサンプルを採取し、 ツーソンの研究室で行った加速器質量分析により、羊皮紙の年代は1404年から1438年にかけてのものと特定したそうです。
これにより手稿が書かれた年代まで特定されたとは言えないものの、 美術史家等による分析では、インクや絵の具の色はルネサンス当時に入手可能だったものと一致しているそうです。


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