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[2013.11.02]

ヒトラー逃亡説
~総統閣下は生き延びていた?~



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【独裁者の最期、第三帝国の崩壊】

アドルフ・ヒトラー(Adluf Hitler)▲
総統閣下(マイン・フューラー)とも呼ばれ、人類史上最悪の烙印を押された政治家。
ヒトラー生存の可能性については、 米英などの西側諸国も本気で探ったものの、後に公式に否定しており、 FBIもヒトラー自殺に関する捜査を1956年で終了している。

アドルフ・ヒトラー(Adluf Hitler)▲
総統閣下(マイン・フューラー)とも呼ばれ、人類史上最悪の烙印を押された政治家。
ヒトラー生存の可能性については、 米英などの西側諸国も本気で探ったものの、後に公式に否定しており、 FBIもヒトラー自殺に関する捜査を1956年で終了している。
20世紀を代表する独裁者であったナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、一般的には第2次世界大戦で敗色濃厚となり、ソ連軍がベルリンに迫った1945年4月30日に自殺を遂げたとされている。
当時、ソ連軍の猛攻を受けたベルリンは陥落も時間の問題という状況であり、総統府である官邸にはヒトラー本人と愛人のエヴァ・ブラウン、そしてごく一部の側近達のみが最後まで残っていたそうなんですね。
しかし、親衛隊全国指導者のヒムラーが許可を得る事無く米英に降伏を申し出た事にヒトラーは激怒し、ヒムラーを解任すると共に逮捕命令を出したそうですが、 もはやドイツはその執行すら出来ない状況であり、 終末を悟って覚悟を決めたヒトラーは、4月29日午前2時頃に会議室でエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げたんですね。
また、口述による遺書を残したそうでしてね、政治的なものと個人的なものをそれぞれ秘書のトラウドル・ユンゲにタイプさせ、 「ドイツ人は私の(ナチズム)運動に値しない事を自ら証明した」と語り、自らの運動が終わりを迎えた事を認めたそうです。

在りし日のヒトラーとエヴァ・ブラウン、愛犬ブロンディ▲
1942年6月14日、ベルクホーフにて。

在りし日のヒトラーとエヴァ・ブラウン、愛犬ブロンディ▲
1942年6月14日、ベルクホーフにて。
翌30日には毒薬の効果を確かめる為に愛犬ブロンディを毒殺した後、 午後には、ヒトラーは2人の秘書と料理人と一緒に最後の食事をしたそうです。
(献立は野菜のスープとマッシュポテト、またはラビオリであったとも言われている)
その後ヒトラーは側近達1人1人と会見し、固い握手を交わして労をねぎらい、最後の挨拶をしたそうなんですがね、この際、全員無言であったそうです。
そして午後3時頃、ヒトラーはエヴァ・ブラウンと一緒に官邸の地下15m、厚さ2m以上のコンクリートの壁で守られた地下壕の執務室に入り、リンゲ親衛隊少佐が扉の鍵を閉めた。
それから約10分後の午後3時半頃、ヒトラーは青酸カリのカプセルを飲んだ後、ピストル(ワルサーPPK)で自らの頭を撃ち、同じくエヴァ・ブラウンも青酸カリを飲んで死亡した。

ヒトラーが隠れていた地下壕(通称バンカー)の見取り図▲
手前が総統地下壕、奥が旧地下壕であり、 大戦末期の1945年1月16日からヒトラーとエヴァ・ブラウン、ヨーゼフ・ゲッベルスらが居住し始め、ゲッベルスの家族やマルティン・ボルマンなど他の者は旧地下壕に居住した。
バンカーの中央会議室の様子▲
ヒトラーが自殺した2週間後に、初めて取材を許可された『LIFE』誌のカメラマンであるウィリアム・ヴァンディヴェートによって撮影された。
ヒトラーとエヴァ・ブラウンが自殺をしたと思われる居間のソファー▲
調査に訪れた戦争特派員がソファーに血痕がついている事を見つけ、恐らく拳銃で自殺したヒトラーのものと推測され、 血痕からDNAを抽出する事に成功した。
しかし、アメリカ在住のヒトラーの近親者(兄アロイス2世の子孫)から比較サンプルの提供を拒否され、特定出来ていない。

ヒトラーとエヴァ・ブラウンが自殺をしたと思われる居間のソファー▲
調査に訪れた戦争特派員がソファーに血痕がついている事を見つけ、恐らく拳銃で自殺したヒトラーのものと推測され、 血痕からDNAを抽出する事に成功した。
しかし、アメリカ在住のヒトラーの近親者(兄アロイス2世の子孫)から比較サンプルの提供を拒否され、特定出来ていない。
午後3時40分、ゲッベルスらが居間に入るとソファーの手前でエヴァが、その奥にヒトラーが死んでいたそうでしてね、 主治医シュトゥンプフエッガー親衛隊少将がヒトラー夫妻の検死を行い、死亡を確認したそうです。
前日にイタリアの盟友ムッソリーニの遺体がミラノ市街で吊るされて晒され、多数の市民によって侮辱されているとの報告を聞いたヒトラーは、自らの遺体がスターリンの手に渡る事を極度に恐れ、部下に自分が死んだらすぐに焼却処分するように命じていたそうなんですよ。
で、部屋の外で待機していたSS(親衛隊)の護衛兵によって、すぐに2人の遺体は毛布にくるまれ、砲撃の合間を縫って外に運び出され、午後4時頃、事前に準備していた140リットルものガソリンをかけて焼却され、焼け残った遺体は官邸裏庭の弾痕の穴に埋められた。
こうしてヒトラーの第三帝国は事実上崩壊し、その後ドイツが連合国側に無条件降伏し、戦争がようやく終わる事となったんですね。

ソ連軍によって制圧され、赤旗を掲げられる国会議事堂(ライヒスターク)▲
赤軍はこの建物そのものがドイツ第三帝国の象徴であると認識していたが、実際には1933年以降ナチス体制下で公式の目的では使用されていなかった。
ベルリンの総統官邸前から運び出される巨大なブロンズ製のナチ・イーグルの紋章▲
第三帝国の終焉を物語っているかの様だ。
徹底的に焼却されたヒトラーの死体とされるもの▲

徹底的に焼却されたヒトラーの死体とされるもの▲
ヒトラーの死から約7時間半後の23時頃からソ連軍部隊が総統官邸への攻撃を開始、 5月2日には制圧され、ソ連防諜部隊SMERSH(スメルシュ)第79ライフル銃隊のイワン・シュラコフによって、 弾痕の穴から男女と犬2匹(ブロンディとその子供ヴルフだと思われる)の残骸が発見されたんですね。
この遺骸は5月5日にはモスクワに持ち帰られ、SMERSH所属の法医学者が検死を行い、ヒトラーとエヴァ・ブラウンのものであると確認された。
炭化して判別のつかない状態であったその遺体が、ヒトラー本人であるという決め手になったのは、燃えずに残っていた義歯だったそうです。
その後ヒトラーとエヴァの遺骸は、 SMERSHによって埋めたり掘り出されたりを繰り返され、 部隊がベルリンからマクデブルクのクラウスナー通りの新機関に再配置されると、 施設内の秘密の墓に埋葬されたものの、 後にヒトラーの埋葬場所がネオナチの聖地になる事を恐れ、 ソビエトのKGBチームによって1970年4月4日に遺骸を掘り出し、 完全に焼却して灰をエルベ川に散骨したそうなんですね。
これらの情報は冷戦終結後の1992年に、 ソ連のKGBとロシアのFSBに保管されていた記録が公開された事によって明らかになったみたいですね。
以上が、歴史的事実とされているヒトラーの最期なんですがね、その死亡については疑問点が多く、様々な憶測がもたらされ、まことしやかに生存説が囁かれていたりするんですよ、ええ。

人間、どんなに追い詰められても自殺しちゃあ駄目ですよね。

ワシだったらメイド服で女装してでも脱出するがな。

ある意味その時点で既に死んでいる様な気がしますがね。


【謎多き死によって囁かれる生存の噂】

ヒトラーの死亡を報道する「スターズ・アンド・ストライプス」新聞の号外▲

ヒトラーの死亡を報道する「スターズ・アンド・ストライプス」新聞の号外▲
ヒトラーが死した後も、連合軍はその亡霊の噂に怯えさせられる事になるんですね。
それはあまりに彼の最期が謎に包まれていたからなんですよ。
疑問点としては、部屋のすぐ外にいたSS隊員のロベルト・レインとハインツ・リンゴの2人が、「銃声は全く聞こえなかった」と証言している事が明らかになっており、さらには、ソ連はその後の調査で、「ヒトラーはピストル自殺ではなく、服毒自殺である事が判明した」という法医学委員会の調査結果を公表しているんですよ。
どうやら、ヒトラーの頭蓋骨には弾丸を受けた痕跡が無く、また、遺体を検死解剖した際、胃からシアン化合物が発見されたので、服毒自殺と断定したってな事だったらしいんだ、うん。
これは、銃声は無かったというSS隊員の証言を裏づけてはいるんですがね、それにしてもまだおかしな点があるんだ。
ヒトラーの遺体を目撃した者の証言によると、青酸中毒の場合に唇に現れるはずの特徴的な青みがヒトラーの遺体には無く、青酸カリのカプセルも、エヴァが使用した1個だけしか発見されなかったそうなんですよ。

号外を読む兵士達▲

号外を読む兵士達▲
この様に、ヒトラーの自殺の死因が食い違いを見せてはっきりしなかった為、ソ連側から出された報告書を連合軍側は信用しなかったそうなんですがね、なんとその後、ソ連軍自身がこの鑑定結果を公式に否定してしまったかと思うと、歯をよく調べた結果、「やっぱりヒトラーである」と結果を二転三転し、さらには「イギリス官憲がヒトラーを匿っている」と主張する有様だったそうなんだ。
また、自軍によるヒトラーの遺体の検死報告をしばらくの間伏せたスターリンは、当時のアメリカ国務長官ジェームス・バーンズに「ヒトラーはスペインかアルゼンチンに逃げたに違いない」と語ったそうなんですよ。
実際、戦後しばらくは、米英ソ軍ともヒトラーと容貌が似た人物を手当たり次第逮捕して取り調べているそうなんですね。

淳二郎さんも当時生きていたら、ヒトラーっぽいからって逮捕されていたかもしれませんね。

ハハハ、何サラッと凍てつく事言ってくれるんですか、葵ちゃん。

ヒトラーが逃げたっちゅーなら、発見された死体は誰なんじゃよ?
たまたま通りがかった近所の住人か?

んなアホなッ!

アメリカ国立公文書館が公開したヒトラーの変装予想写真▲
終戦前、ヒトラーの逃亡を警戒して作らせたものだという。
赤軍親衛隊兵士イリア・シアノフが撮影したヒトラーらしき人物の死体▲

赤軍親衛隊兵士イリア・シアノフが撮影したヒトラーらしき人物の死体▲
1960年5月には、当時ソ連の新聞であった『プラウダ』紙のナチス降伏15周年記念号の第一面として、ヒトラーの死体の写真とされるものが掲載され、自殺の死因を巡り、ソ連軍とイギリス軍の報告はますます真っ向から対立したそうなんですよ。
この写真を撮影したのは、ベルリン攻撃部隊であった176赤軍親衛隊のイリア・シアノフって兵士だったそうでしてね、1945年5月5日、シアノフの部隊は、ベルリン攻略戦で最初にヒトラーの地下壕に侵入したそうなんですよ。
でもって、彼は官邸裏庭で2体の焼死体を発見した為、とりあえずカメラで撮影した後、入り口付近にも弾丸を撃ち込まれた死体が転がっていたので、これも撮影したってな事だそうなんですね。

ヒトラーの遺体が発見されたという弾痕の穴▲

ヒトラーの遺体が発見されたという弾痕の穴▲
しかしですね、この写真には明らかにおかしい点がありましてね、連合軍のトレバー・ローパー大尉の報告では、銃は口内に向けて発射された事になっているにもかかわらず、この写真では明らかに弾痕が額にあるんですね。
また、何よりその後のソ連の公式見解でヒトラーはピストル自殺ではなく、服毒自殺であり、頭蓋骨に弾丸を受けた痕跡は無かったという事になっているし、そもそもヒトラーの死体は自殺した直後に焼却されているはずなんで、5月始めに侵攻してきたソ連軍の兵士が、こんな写真を撮影出来る訳が無いってな論外な代物だったんですよ。
(また、公式の史実では前述の通り、ソ連は総統官邸を5月2日時点で制圧しており、5日には既にヒトラーとエヴァの遺骸は回収され、モスクワに運ばれていた)
また、こんな話がありましてね、ヒトラーが自殺を遂げたはずの4月30日の夕方、ベルリン近郊のテンペルホフ空港にドイツ兵を乗せた輸送機が着陸したそうでしてね、この輸送機にはベルリン防衛の為の部隊が乗っていたそうで、給油作業待ちの時間で通信兵と砲兵が機外で話をしていたところ、100m程離れた場所にヒトラーが立っているのを目撃したそうなんですよ。
ヒトラーはナチス高官と話し込んでおり、給油を終えた輸送機はそのまま空港から飛び立ったそうなんですがね、2人は戦後しばらく立っても、空港で見たのは間違いなくヒトラーであったと主張し続けたそうです。
ヒトラーには何人もの影武者がいたと言われており、ヒトラーが無事に逃げ延びた可能性を否定する事は出来ないんですねえ。

じゃあやっぱりヒトラーは生きてたって事なんですかね?

こりゃソ連としても「早くひっ捕らーえないと!」って感じじゃな。
ヒットラーだけに。

え?

え?(うわあ、それ私も以前言ったかも・・・)


【ヒトラーは南米に脱出していた?】

Uボートでまんまと戦火から脱出するイメージ▲
ヒトラー含むナチス残党の逃亡先としては、南米の他、南極大陸や月面といった説まである。
果てしなきナチスの野望▲

果てしなきナチスの野望▲
実は敗北を覚悟したヒトラーは、新たな野望を抱き、恐るべき極秘計画を企てていたという説があるんですよ。
その計画とは、南米を拠点とする新たな帝国を築く事だったんですね。
南米のパタゴニア地方はもともと、ナチスの植民地候補だったそうなんですがね、大戦での形成が不利になり始めた頃から、ヒトラーの逃亡先として注目されてたそうなんですよ。
当時、ナチスはアルゼンチンのペロン将軍へ30億ドルもの投資を行い、また、ペロン将軍はヒトラーの熱烈な崇拝者であり、その絆も強く結ばれていたっぽいんですね。
また、ナチスは、ドイツ企業を経由して海外への投資をさせる事によって、隠し資産を移し、資金源を確保していたそうなんだ。
そして、もしもの時の為に、南米への脱出ルートを準備しており、多くのナチス党員がドイツを抜け出す事が出来たという。
1983年に、ナチスの親衛隊中尉だったクラウス・バルビーが、ボリビアで逮捕された事や、ユダヤ人虐殺を行ったアイヒマンがアルゼンチンに亡命していた事、「死の天使」の異名を持ち、人体実験を行っていた医師メンゲレが1971年にパラグアイにいるところを目撃されるなど、これらのナチスと南米の接点を考えると、ヒトラーも南米に脱出していたという説が真実味を帯びてくるってなもんですよ。
それに、ヒトラーがUボートを使って南米へ上陸したのではないかという、驚くべき報告があるんですよ。

ハインツ・シェファー艦長▲

ハインツ・シェファー艦長▲
終戦後の1945年、7月10日と8月17日、アルゼンチンのブエノスアイレス沖に、相次いで二隻のUボートが侵入し、直ちに拿捕され、乗組員は投降したそうなんですね。
妙な事に、彼らクルーは全て20代の若者であったそうでしてね、さらに、アルゼンチン海軍当局の調査によって、通常Uボートは18人乗りであったところ、最初に拿捕された「U-530」には、なんと58人もの若者が乗っていた事が判明したそうなんですよ。
また、同ボートには540個のドラム缶が積載されており、その中身はドイツ製のタバコであったそうです。
しかし、彼らはタバコを吸わなかったし、量が多過ぎる事から、何らかの意図があって持ち込まれたと判断されたんですよ。
ところが、その次に投降した「U-977」のハインツ・シェファー艦長(当時24歳)の証言で、二隻のUボートはノルウェーのクリスチャンサンから出港した、大護衛船団の一部であると判明したんですよ。
でもって、大量のタバコは、なんとヒトラーと共に南米に脱出したナチス党員達の為のものであった事も分かった。
シェファー艦長は後年、著書『Uボート977』にてこの様な驚くべき告白をしている。
「U-977は通常の航海日数を超えて活動しなければならない事が明らかになった。これは自由と苦闘への航海、海軍史上最も長期間の航海をする事になる。そして我々は、最終的には途方もない犯罪を犯す事になるだろう。何と彼は生きていたのだ。我々は彼を隠れ家へと運んでいる・・・」ってなね。

そんなに大量に持ち込むだなんて、どんだけタバコ好きだったんですかね、ナチスの人達は。身体に悪いだけなのに。

まったくじゃ。
ワシだったらお菓子や漫画やゲームを沢山持ってくわい。

それは自粛せんかいっ!

敗色濃厚の1945年、空襲で破壊されたベルリンの街を歩くヒトラー▲

敗色濃厚の1945年、空襲で破壊されたベルリンの街を歩くヒトラー▲
シェファー艦長は1945年5月、空襲の真っ只中にキール港を出港した。
彼はこの時、既に敗戦を感じ取っており、連日の様に連合軍の戦闘機がドイツの基地を爆撃し、ドイツにはもはやそれに対抗し得る兵器は無く、シェファーの艦の弾薬庫も爆撃で破壊され、しかも、後を続いていた潜水艦も沈没させられてしまっていたんですね。
シェファーは食料をろくに積まないで出港していたんで、途中、補給の為にデンマークに寄航したそうなんですがね、この時、同港に終結していた別の小艦隊の指揮官が、艦内無線を通じて彼らを歓迎するスピーチをしたそうなんですよ。
「最後まで戦おう、ドイツは決して降伏しない」ってなね。
その指揮官こそ、ヒトラーその人であったと推測されるそうなんですよ。
乗員16人はここで下艦したそうですが、数日後、彼のUボートは定員の倍のクルーを乗せて、アルゼンチンに向かう護衛艦に加えられた。
そして彼らは、緊急時を除いて、浮上も無線通信も禁止されたそうなんですがね、これは潜水艦では極めて危険な行為なんだそうなんですね。
こんな異常事態のまま出港した数日後、同艦に突然、「潜水艦の諸君へ。我々は5年間に渡り、7つの海で勇敢に戦ってきた。その戦績は栄光あるものであった。しかし、もう忍耐の限界にきた。最悪の事態を待つのみだ。明日から我々は連合軍の指揮下に入るだろう」ってな奇妙なメッセージが届いたそうなんだ。
しかし、このメッセージには本来あるべき署名が無く、シェファー艦長はすぐに敵の罠だと判断し、受信機のスイッチを切る様に部下に命じたという。
こうして彼らは、イギリスの警備網を慎重に抜けて、大西洋にコースを取った。

航行中のU-977▲

しかし結局、約2ヶ月間に渡る航海の後、彼らは拿捕される事となり、アルゼンチン当局に拘束されたシェファー艦長はワシントンに送られ、任務について厳しい尋問を受けたんですね。
また、彼らが乗っていたUボートは徹底的に調査され、壁を叩いたり、床板を剥がしたりして、隠し部屋がないかどうかチェックしたそうです。
シェファー艦長は自著に「彼らが捜し求めていたもの、それはフェーラー(ヒトラー)の姿だったのである」と記しており、アメリカ当局はこの時、ヒトラーの逃亡先と、彼が脱出する際にシェファーが果たした役割について何度となく詰問した事から、明らかにヒトラーの自殺については懐疑的であったと思われるんですね。
しかし、決定的な証拠を掴む事は出来ず、イギリス当局もロンドンでシェファーを尋問したそうなんですがね、結果は同じだったそうなんですよ。
けども、彼は著書でも全ての真相を語っている訳ではなかった。
実は後日、親しい人間に、彼らよりも先に投降したU-530がスペインの近くを通過中に、ヒトラーらしき人物を含む数人を乗せたという発言をしたそうなんですよ。
そのヒトラーらしき人物は、Uボートに乗り込むと自室に閉じこもり、ドアの前ではボディーガードが常に置かれていたってな話ですよ、ええ。

いつの時代も悪党ってのはしぶといもんですね~。

そういやビンラディンやフセインもかなり逃げ回ってましたもんね。
最終的に世界の警察であるアメリカに倒されましたけど。

このチョビ髭オヤジに関しては、世紀を跨いで未だにしぶとくネット上でネタにされているからな。


【大物スパイの告白】

アンヘル・アルカッサル・デ・ベラスコ▲

アンヘル・アルカッサル・デ・ベラスコ▲
第2次世界大戦中、アンヘル・アルカッサル・デ・ベラスコというドイツの大物スパイがいた。
スペイン系ユダヤ人であった彼は、その能力を遺憾なく発揮し、ヒトラーからも厚い信頼を得ていたそうでしてね、ベルリン陥落直前にも、官邸所属情報員「ドクター・ゴメス」として地下官邸でヒトラーと共に過ごし、そして彼が去るのを見届けた後、秘密結社の意向によって監視をする役目も担っていたそうなんですよ。
1945年4月21日、執務室から出てきた憔悴しきった顔のヒトラーは通路でよろめき、デーニッツ提督とカイテル将軍が慌てて前方に出て支えようとしたが、ヒトラーは彼らを払いのけて歩き続けた。
この際、ヒトラーはべラスコの前で立ち止まり力の無い握手を交わすと、ほとんど聞き取れない程の小声で「動機の無い男は何処へ行くのだろうか・・・?」という謎めいた言葉を囁き、後ろにいる士官達には目もくれず、ゆっくりと階段を上がっていった。
その数分後、ヒトラーと背丈も顔つきもそっくりな男が士官連れられて執務室に入っていった。
実はこの男、ヒトラーの従兄弟であり、影武者だったそうなんですね。
ボルマンの話によれば、この影武者が後にピストルで射殺され、ヒトラーの死体として偽装されたという事らしく、 既にこの時点でヒトラーは総統府から出て、大型のメルセデス・ベンツを一昼夜かけて走らせ、 まずドイツ南部バイエルンのロタック・アム・エルヘンの要塞に移動したそうでしてね、替え玉の遺体が発見された頃にはドイツ領土内を横断して、船でUボート基地のある北欧ノルウェーの小さな寒村に向かっていたそうなんですよ。

ヒトラーの隣(向かって左)にいるのがマルティン・ボルマン▲
いかにも側近の幹部といった感じである。

ヒトラーの隣(向かって左)にいるのがマルティン・ボルマン▲
いかにも側近の幹部といった感じである。
また、べラスコによれば、ヒトラーのベルリン脱出を助けた副官マルティン・ボルマンは、地下壕に残った電話交換手や秘書達を含む全員に、ヒトラーの最期を後世にどんな内容で語り継がなければならないかを言い含めて、厳命していたという。
更にべラスコは、大量殺戮を命じてアウシュビッツの悪魔と呼ばれ、終戦と同時にユダヤ人による戦犯探索組織に追跡されたアイヒマンと、副官のマルティン・ボルマンを自宅に匿い、さらにその2人を潜水艦で南米に逃亡させた事を認めているんですね。
そして、ヒトラーには溺愛した2人の子供達がおり、敗戦の時点で16歳ほどの息子アドルフォと、その妹ステーンは戦後、メキシコのある田舎町でナチスのメンバーに育てられ、べラスコは子供達が通う学校の近くであるアメリカ国境近くのシゥダードフワレスという街で、表の姿を「カルシア・ヴァルセッカ」なる新聞社の社員という肩書きにし、その実、ナチスの現役エージェントとして、諜報活動を行いながら、こっそり彼らの成長ぶりを見守り、写真を撮って継続的にヒトラーに送っていたという。
1957年6月、ベラスコはボルマンから「“アンデス山中の農場”で開催される会議に出て欲しい」という旨の手紙を送られ、再開を果たしたそうでしてね、会議後の食事の席で彼らが2人きりになった際、「ヒトラーはどうしているか?」というベラスコの質問に、ボルマンは肩をすくめて「ヒトラーをドイツに凱旋帰国させたかった」とだけ答え、「もう死んでいるのか?」という質問には何も答えなかったそうです。

なかなかやるなベラスコ。
写真ではレンズに顔を向けたがらないシャイっぽい感じじゃが、そんくらい控えめな方がスパイにゃ丁度いいのかもな。

顔が俯き気味なのはたまたまですよっ!

結局、逃げ延びたヒトラーはその後どうなったんでしょう?


【ナチス南米の隠れ家】

風光明媚なバリローチェ▲
アルゼンチンのリオネグロ州にあるナウエル・ウアピ湖に面した町だ。

戦後、多くのナチス高官が南米パタゴニア一帯に亡命し、 身分を偽り生活していたという事についてはほぼ間違い無いらしく、 アルゼンチンのジャーナリストであるアベル・バスチが、2004年7月に出版した著書『Bariloche Nazi Tour Guide』によれば、ヒトラーはブエノスアイレスから1350km離れたアンデス山脈の麓にあるチリとの国境に接した街サン・カルロス・デ・バリローチェ近郊、ヴィラ・ラ・アンゴスチュラという場所に隠れ住んでいたそうなんですよ。
ナチス一行は南米上陸後、1957年頃まで、アルゼンチンのビジネスマンが私有するここの土地で生活していたそうなんですがね、その後は、サン・ラモンという山間の農場、通称「エスタンジア」、または「ディストリクトX」と呼ばれナチス残党の隠れ家とされる土地に移り住んだそうなんですよ。

サン・ラモン農場(エスタンジア・サン・ラモン)周辺▲
同地域は過去数年間に渡って謎の殺人事件が多発している場所でもあり、 2003年には同農場の管理者であったクリスティアン・ゲルというスイス人も何者かによって射殺されている。
パウル・シェーファー(撮影時84歳)▲
男児の性的虐待の容疑でコロニーから逃亡し、2005年にブエノスアイレスで逮捕された。

パウル・シェーファー(撮影時84歳)▲
男児の性的虐待の容疑でコロニーから逃亡し、2005年にブエノスアイレスで逮捕された。
エスタンジア自体は本来“農場”を指す言葉らしいんですがね、 隠語で“隠れ家”を示すもので各地に複数あったらしく、 これらの謎を追った国際ジャーナリストの落合信彦が1980年に著した『20世紀最後の真実』においては、ナチス製UFOの秘密基地があったのではないかとも考えられているんですね。
なお、落合氏が追いかけたエスタンジアに関しては、実はナチス逃亡先ではなく、政権交代により 近年その実態が明らかになりつつある「コロニア・ディグニダッド」(「尊厳のコロニー」の意、後に「ビジャ・バビエラ」に改名)というドイツ人のコロニーであった可能性があるそうなんですよ。
このコロニーは、1961年に元ナチス党員パウル・シェーファー率いるドイツ人移民によって設立された非営利組織で、 首都サンチャゴから南に380km程の地点に位置するその地域の実態は、これまで50年間に渡り謎に包まれていたんですね。

コロニア・ディグニダッドの入口▲
“国家の中の国家”とも称されていた。

コロニア・ディグニダッドの入口▲
“国家の中の国家”とも称されていた。
周囲に有刺鉄線が張り巡らされた137平方キロメートルに及ぶ広大な敷地には、移民の数は200~300人がおり、 学校や病院や発電所、さらには飛行機の滑走路まで備えていたそうです。
2005年6月には、チリ警察がコロニア・ディグニダッドの敷地内で機関銃、自動小銃、ロケット砲、大量の弾薬の他、 なんと地下には戦車まで隠し持っていた事が判明しているんですね。
このコロニーでは、創始者のパウル・シェーファーが王として君臨し、 住民は異常なまでの管理下に置かれ、コロニーから離れる事は一切許されず、 テレビや電話も禁じられ、外部からの情報も完全にシャットアウトされたそうです。
しかも普段はドイツ民謡を歌いながら1日16時間もの農作業を行わされていたらしく、さながらナチス・ドイツを再現していた様なものだったみたいですね。
また、1973年9月に誕生したピノチェト独裁政権下では、 チリ国家情報局「DINA」が関与し、コロニア・ディグニダッドで政治犯への人体実験が行われたらしく、 同敷地内からは、チリの反体制派メンバーの死体も発見されているそうです。

ヒトラーが身を潜めたとされるパタゴニアの隠れ家▲
1943年にナウエル・ウアピ湖の湖畔に建てられたINALCOハウスと呼ばれるもので、アルプスにあったヒトラーの別荘ベルクホーフと構造が似ているという。
南米で撮影された、晩年のヒトラーとされる人物の写真▲
近年ネットで出回っている画像だが、 どうやらアメリカのロサンゼルス在住のナチスドイツ研究家ロイ・タヴェスクが極秘に入手したものらしく、 1960年代に南米アルゼンチンで撮影されたものだという。

南米で撮影された、晩年のヒトラーとされる人物の写真▲
近年ネットで出回っている画像だが、 どうやらアメリカのロサンゼルス在住のナチスドイツ研究家ロイ・タヴェスクが極秘に入手したものらしく、 1960年代に南米アルゼンチンで撮影されたものだという。
一方、イギリスの作家で映画監督でもあるジェラード・ウィリアムズが 2011年に出版した『グレイウルフ(灰色狼):アドルフ・ヒトラーの脱出』によると、 ヒトラーは1946年から1954年までナウエル・ウアピ湖の湖畔に建てられた邸宅に身を潜めていたそうで、 1962年に73歳で死にまでに2人の娘がいたらしいんですよ。
(もっとも、この本に関してはかなり賛否を生んでいるみたいですが)
FBIの最近の報告や、アルゼンチン警察の古い記録にも、アルゼンチン在住の複数の人々によるヒトラーと思われる人物の目撃証言があるらしく、そうしたものに加え、同盟国の日本にUボートで亡命したという説や、アルゼンチン経由で戦前に南極に作られたナチスの探検基地まで逃げたという説が唱えられたり、更に1992年にはアメリカのフロリダ州のタブロイド紙にて、「ヒトラーはつい最近まで生き残っていたが、心臓発作により102歳で死去した」という報道までなされていたりするんですよ。
もっとも、ヒトラーは当時、重度のパーキンソン病にかかっていたとも言われており、あまり長生きしたとは考えられないんですがね。

世間的に死んだと思わせて悠々自適の年金暮らしとは憎たらしいやっちゃのう。

ちゃんと支払ってたかどうかは知りませんけどね・・・。

まさかのつい労わってあげたくなる様なお爺ちゃんっぷりですね。
これが本当に狂人と言われたヒトラーの老後の姿なんですかね?

主にネットで出回ってるものなんで、フェイクの可能性が高いとは思いますが、確かにヒトラーが老けたらこんな感じになりそうですね。

それより、なんで布切れ被っとるんだ?紫外線対策か?


【ヒトラーの頭蓋骨】

ヒトラーのものとされた頭蓋骨の一部▲
頭蓋骨には穴が空いており、 ヒトラーがこめかみを撃って自殺した時の痕なのではないかと考えられていた。
スターリンの特殊部隊SMERSHによって持ち出され、 現在はモスクワの公文書保管局に保管されている。

ヒトラーのものとされた頭蓋骨の一部▲
頭蓋骨には穴が空いており、 ヒトラーがこめかみを撃って自殺した時の痕なのではないかと考えられていた。
スターリンの特殊部隊SMERSHによって持ち出され、 現在はモスクワの公文書保管局に保管されている。
2009年9月29日付の報道によると、 米コネチカット大学の研究チームが、2000年にロシア連邦保安庁(FSB)によって公開された ヒトラーのものとされる頭蓋骨のサンプルをDNA分析した結果、 その頭蓋骨は20~40歳代の女性のものと判明したそうなんでねすね。
同発表を行った研究チームの考古学者ニック・ベラントーニによると、 この頭蓋骨の厚みが非常に薄く、少なくともヒトラーのものではない事が分かったそうです。
この頭蓋骨の存在は、ヒトラーが地下壕で銃によって自殺したという事をそれなりに裏付けるものであった為、 関係者の間に衝撃をもたらしており、 ある研究家は「やはりソ連軍が持ち帰った遺骸はヒトラー本人のものでは無く、 ベルリン陥落直前の混乱の中、大急ぎでヒトラーの死を偽装していたという事を示しているのではないか?」という見解を強めているみたいです。
あるいはヒトラーと一緒に自殺した愛人エヴァ・ブラウンの頭蓋骨ではないかとも考えられるそうです。
しかしこの報道の後、ロシア連邦保安庁(FSB)は、 米側が鑑定しなかった顎骨はあくまでヒトラーのものだったと主張しているみたいですね。
もっとも、スターリンにしても、宿敵であるヒトラーが死んだとはなかなか信じなかったらしく、 彼は戦後のポツダム会議で、米大統領トルーマンに対して「長い間徹底的にベルリンを調査したが、我々はまだヒトラーの死体を発見出来ていない」と語ったそうですよ。

間違えて別人の骨拾ってくるとは、ソ連の特殊部隊の奴らも結構ドジっ子じゃな。

でももしこれがヒトラーでもエヴァのでもなかったら、一体誰の骨なんでしょうね?

いずれにせよ、 ロシア的にはこれがヒトラーの骨だとしておかないと世界への示しがつかなくなっちゃいますしね。


【ラストバタリオンと第四帝国の逆襲】

1945年、廃墟となった総統官邸の前に立つヒトラー(右)▲
これが彼の生きている姿が撮影された最後の写真だという。左にいるのはSSの副官シャウブ。
バンカーに残されていたナチス将校の帽子▲

バンカーに残されていたナチス将校の帽子▲
さて、 ヒトラーは戦争末期、ドイツ国民に対するラジオ演説でこう述べているんですね。
1945年1月10日には、「この戦争には勝利者も敗者もない。あるのはただ死者と生存者だけである。 しかしながら、ラストバタリオンはドイツ人である」と、 そして2月25日には、「まもなく東と西がぶつかり合う日が必ずやってくる。その時、その結果を左右するような決定的役割を演ずるのは我々ドイツ人のラストバタリオンである」と。
このラストバタリオン、即ち“最後の大隊”の存在を示唆する発言については、単にヒトラーの強がりだったとも取れるんですがね、 先述の落合信彦氏は、ラストバタリオンの正体が、南米に逃げ延びたナチスの精鋭部隊によって、 密かにチリやアルゼンチンの地下都市で製造された空飛ぶ円盤の大群なのではないかと考えたみたいですね。
また、戦後、あたかも第四帝国の建設を画策していた様な素振りがあり、 どうやら選び抜いた政府高官や科学者といったエリート達を、何処かへ移動させていたみたいなんですね。
と言うのも、連合軍が首都ベルリンを陥落させた後、 すぐに戸籍の調査を行ったところ、なんと10万人以上(25万人とも)の20代の若い男女がドイツから消えている事が分かっているみたいなんですよ。
(当時、戸籍制度を持つ国は珍しく、連合軍は戦後、身を隠す事が予想されたナチス党員等の戦犯を探す為の材料とした)
さらに、これと同時に、ドイツ海軍からは大量のUボートや輸送艦等も消失していたそうでしてね、 あたかも行方不明になった人々を乗せるのには、ちょうど良い定員数だったそうなんですね。

ナチスの南極大陸探検隊▲
総勢57人がカタパルト船シュワーベンラント号で遠征した。

どうやらヒトラーは、早い時期から南極大陸に目をつけていたみたいでしてね、 植民地政策として(あるいは伝説の地「虹の都」を探す為)積極的に推し進めていたそうなんですね。
当時の南極は世界のどの国も所有権を主張しておらず、 この手付かずの開拓地を獲得すべく、ヒトラーの命により、1938年7月、北極探検の経歴を持つアルフレート・リッチャーを隊長とする極秘の南極大陸探検隊が組織されたんですね。
そして同年12月17日、探検隊員33名と船員24名を乗せたカタパルト船シュワーベンラント号はハンブルクを出港し、 翌1939年1月に南極クイーンモーランド沖に辿り着くと、岸沿いの海氷の上にドイツの国旗を立て、 3週間に渡って船から飛び立った2機の観測用水上機パサートとボレアスによって60万平方kmもの面積の航空写真を11,600枚撮影したそうです。

ナチスin南極(ノイ・シュワーベンラント)▲
探検隊は、20キロ毎にナチスの旗を落としながら進んだという。
南極探検は極秘だった為、一般のドイツ国民は戦後になるまで知らなかった。

この航空写真をもとにドイツ本国では南極の地図を作成し、ヒトラーは調査区域をドイツ領土とみなし、探検隊の船の名にちなんで、 「ノイ・シュワーベンラント(新しいスウェイビア)」と名づけたそうです。
また、この領土を実効的に支配する為、軍事拠点の建設を画策したみたいですね。
リッチャー探検隊はその後、仮設基地を作り、いくつかの班に分かれて数週間にわたって海岸沿いを徒歩で移動し、 2月6日に南極を離れるまで調査を行ったそうです。
しかし、第二次世界大戦に突入した為、再びノイ・シュワーベンラントの探検が行われる事はなく、 ドイツは結局ノイシュヴァーベンラントに対して公式な領有宣言は行わなかったんですね。
ちなみに現在、南極のこの地域はドローニング・モード・ランドと呼ばれているそうですが、 ノイシュヴァーベンラント(ニュー・スウェイビア)という呼称もいくつかの地図では未だに使用されているみたいなんですね。

南極にはナチスの秘密基地があり、ナチス製UFOが作られている?▲

さて、話を戻しますが、ラストバタリオンは南米の地下都市の他、この南極(または月面)に建造された秘密基地に身を潜めており、 ベルリンを脱出したヒトラーもここに避難(あるいは一旦南米を経由して)しているという見方があるみたいですね。
実は終戦後の1946年から1947年にかけて、アメリカ政府が南極でハイジャンプ作戦と呼ばれる南極探検を行っており、 「人工衛星用地の建設を目的」として、4000人の海軍兵を空母含む軍艦13隻等で南極に向けて発進させているんですね。
しかも、支援部隊としてイギリスやソ連、ノルウェーの軍隊も同行させるという、その目的内容からは考えられない程、 異常に大規模なものだったみたいなんですね。
まるで、各国が協力して南極にナチスの秘密基地でも出来ていないか確認しに行ったかの様にね。
余談ですが、この時ハイジャンプ作戦を指揮したリチャード・バード少将は「地球空洞説」に関する奇妙な体験をしており、 南極から撤退しアメリカへ帰る船上で開いた記者会見において、アルゼンチンの記者の質問に対してこう答えているそうなんですね。
「アメリカ合衆国は、敵対地域に対して至急、防衛網を張る必要がある。次に起こる第三次世界大戦は、南極から北極までを信じられないスピードで飛ぶような兵器をもった相手と戦うことになるだろう(1947年3月5日付『エル・メルキュリオ』紙)」と。
また、「1958年にアメリカがドローニング・モード・ランドで核実験を行った」という噂が流れており、これは アメリカが南極にあるナチスの基地に攻撃を行ったのではないかという説を生んだみたいですね。

確かに南極なら人目が無くて、秘密基地を建てるにはもってこいの場所かもしれませんね。

シャレにならん位クソ寒そうな上に近くにコンビニとかも無さそうじゃし、ワシなら南極なんか即却下じゃがな。

分からなくもないですが、ちょっと文明社会というぬるま湯に浸かり切った発言ですね・・・。

ヒトラーが築いたナチス・ドイツの第三帝国▲

敗戦後、南米に逃げる途中でSS幹部ハインリッヒ・ミュラーは「総統はもう第四帝国の準備をしている」と発言したとされているそうなんですね。
また、ヒトラーは、この第四帝国について、「今の帝国より3世代ほど後に現れる」と公言しているみたいなんですね。

果たしてラストバタリオンの襲来はあるのか?▲

この世界情勢が目まぐるしく変化する時代、何処かに姿を隠しているラストバタリオンが、あるタイミングでの国際社会の有事に備えて、 来るべきXデーを虎視眈々と待っているのかもしれません。
そしていつの日か、空飛ぶ円盤の大隊が空を覆いつくし、新たなヒトラーが世界を征服する時がやってくるのかもしれませんね。

【補足1:ナチスの語源】
そもそもナチス(Nazis)とは、「Nationalsozialitische Deutsche Arbeiterpartei」(国家社会主義ドイツ労働者党)というナチス党の正式 名称の一番最初の単語から取ったものであり、本来のドイツ語の綴りである「Nati」の 「ti」を発音が同じ「zi」にわざと変えて「Nazi」とする事で「ナチ公」の様な蔑称的なニュアンスを持つ。
ナチスが政権を獲得する前から反ナチス側が頻繁にこの語を用いていた為に一般的となったが、 蔑称なので当然ナチス党員は使用しなかった。

【補足2:第三帝国とは】
ナチズム体制の公式名称であり、古くから「来るべき理想の国家」を意味する概念として用いられた。
ヒトラーは自分の支配するドイツを、962年に始まる神聖ローマ帝国と、 1871年にビスマルクの強力な指導力により成立した第二帝制の後を継ぐドイツ民族による3度目の帝国とみなした。
このプロパガンダが採用されたのは、1923年にメラー・ファン・デン・ブルックという右翼ナショナリストの思想家が刊行した同名の書を読んだ ヒトラーが、中世の神秘主義的な“千年王国”思想に通じるものを感じ、魅了された事によるとも言われるが、その一方で、 彼自身は自分の帝国こそが唯一無二であり、「3番目」などもってのほかという事で、あまり用いられる事を快く思わなかったものの、 結果的に一人歩きして広まってしまったという話もある。


■参考文献
Pictured: Squalid sofa where Hitler and Eva Braun killed themselves and the secret bunker where they spent final hours revealed for the first time | Mail Online
Bnei Brak - Documentary Alleges Hitler Died In A Rural Estate In Argentina With Wife -- VosIzNeias.com
「ヒトラー逃亡説」の実態
X51.ORG : エスタンジア視察最終報告 - 「20世紀最後の真実」の真実とは
X51.ORG : 「20世紀最後の真実」 ― コロニア・ディグニダッドの実態が明らかに チリ


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