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[2006.01.01]

『モナ・リザ』の謎


クリックで拡大『モナ・リザ(Mona Lisa)』は、黒い衣装を着た1人の女性が、わずかに微笑んだ半身の肖像が描かれている、歴史上最も有名な油絵である。
ダ・ヴィンチは1503年にこの絵を描き始め、死の床につく4年後まで筆を入れ続けたそうだが、ついに未完に終わり、彼は生涯この絵を手放す事は無かった。
ポプラ材に描かれたこの絵には、筆で描いた後を指でこすり、筆跡を隠してしまう「スフマート」と呼ばれる技法や、背景の遠くにあるものをぼかして描き、奥行きを表現する「空気遠近法」という、当時にしては画期的なダ・ヴィンチ独自のぼかし技法が使われており、現在はパリのルーヴル美術館に展示され、同館の目玉の1つとなっている。
現在我々が目にする『モナ・リザ』は、描かれてから500年以上の間に、後世に塗られた保護用のワニスによって黄ばんでしまっているが、当初は画面全体が今よりも鮮やかな色彩であったという。
『モナ・リザ』のモデルが誰であったのかはわかっておらず、当初この絵は「ヴェールを被ったフィレンツェの娼婦」と呼ばれていそうだが、50年程後にダ・ヴィンチの生涯を『美術家列伝』に記した作家ジョルジョ・ヴァザーリが、この絵について『モナ・リザ』と記し、それが広まって今の名が定着したとされている。
「モナ(Mona)」は婦人の敬称「Madonna」の短縮で、「リザ(Lisa)」は「エリザベッタ」の愛称であり、ヴァザーリはこの女性が、フィレンツェの富豪、フランチェスコ・デル・ジョコンダの3番目の妻エリザベッタ・デル・ジョコンダであると記しており、イタリア語、フランス語での名称は、ジョコンダ婦人(La Gioconda)である。
美術史の研究者達の多くは、この肖像画のモデルは、その妻のジョコンダ婦人であると考えているが、ダ・ヴィンチの残した大量のスケッチやメモには、この肖像画については晩年まで離さず持ち続けていたにもかかわらず、何の記録も記されていないそうだ。
デル・ジョコンダは裕福な人物であり、当時フィレンツェの中で政治的にも権威を持っていたそうだが、その妻である肝心のエリザベッタ、本名リザ・ゲラルディーニについては、1479年にトスカーナ州キャンティ地方のグレーベとカステッリーナの間にある農園の小さな貴族の家に生まれ、1495年に絹物商のデル・ジョコンダと結婚し、生まれて間もない子供の病死という不幸に見舞われた事意外は、殆ど何もわかっていない。
一説によると、エリザベッタは絵のモデルをした頃に子供を亡くしたばかりで、夫のジョコンダが道化師を雇って、妻を和ませたという。
その為、『モナ・リザ』は顔の左半分で微笑み、右半分では悲しみの表情を浮かべ、喪服と思わしき黒い衣装を着ていると言われている。
さらに、立体感を出す為に、あえて右手が左手に比べて大きく描かれたと思われる、組まれた手元が腹部をいたわるかの様な位置であり、左目横に米粒大の腫瘤がある事から、彼女は妊婦なのではないかとも言われている。
しかし、絵が描れた1503年当時、エリザベッタは24歳であるが、描かれている人物はもっと年齢が高く見えるし、また、デル・ジョコンダの妻と書き記したヴァザーリが、何故そう著書に書いたのかはっきりしていない為、ダ・ヴィンチの言った「貴婦人」かどうかは確証が無い。
まあ、サザエさんも24歳の割りに、もっと老けて見えますしね。
イザベラ・デステの肖像そもそも特定のモデルは存在せず、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの脳内にあった、理想の女性像を描いたものだという意見もある。
だが、肖像画のモデルと言われている人物は他にも候補がいてね、まずは、当時ジュリアーノ・デ・メディチの愛人であったナポリ公妃コスタンツァ・ダヴァロス。
彼女の名はダ・ヴィンチ自身の言葉から語られたものだが、1503年当時、彼女は45歳であり、描かれた姿が年齢的に合わない為、これは、単にダ・ヴィンチが嘘をついたのではないかと言われている。
次に、年齢が『モナ・リザ』と近く、同じ構図の油絵『アラゴンのイザベラの肖像』があるミラノ公妃イサベラ・ダラゴーナ。
この絵はスイスで個人が所有しており、詳細は不明であるが、容姿に微妙な異なりはあるものの、背景を含めてほぼそっくりの絵柄であるのだ。
次に、芸術の庇護者であり、モードの権威でもあったマントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステ。
ダ・ヴィンチによる真作か贋作であるかの議論はありつつも、彼女が描かれたデッサン『イザベラ・デステの肖像』は、顔や体型や衣装が『モナ・リザ』と似ている。
以上の人物達が主に候補に挙げられてはいるが、いずれも確証は無い。
ふ〜ん、誰なんですかねぇ・・・。
一方、ベル研究所のリリアン・シュワルツ博士は、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの自画像である、という見解を出している。
シュワルツ博士によれば、ダ・ヴィンチの自画像とされる絵と、『モナ・リザ』の顔の特徴をコンピューターで合成すると、顔の特徴がほぼ一致するのだという。
ダ・ヴィンチは男女両性の調和を理想として求めていたそうで、中世的な趣のある『モナ・リザ』のモデルが、彼自身の女装姿だったとしても不思議ではないのだ。
エジプトの豊穣の男神の名は「アモン」で、女神の名は「イシス」であるが、イシスは古い象形文字で「リザ」と呼ばれていたそうで、この2つの名を合わすと「AMON L'ISA(アモン・リザ)」となり、これを並べ替えると、「MONA LISA(モナ・リザ)」という、男女を融合させた名になるのだ。
しかし、同じ画家が描いた絵は、癖や好み等から特徴が似通ったものとなる事も多く、ダ・ヴィンチ自身の「全ての肖像画は画家自身の自画像に通じる」という言葉を裏付けた結果だとも見なせる。
さらに、ダ・ヴィンチは、肖像画の人物を示す物を作品内に描く事があり、例えば『白テンを抱く貴婦人』という作品では、ルドヴィコ・スフォルツァなる人物の愛人チェチリア・ガレラーニという16歳の女性を描いているが、白テンはルドヴィコ家の紋章の1つであり、チェチリアの姓は動物を表わすギリシャ語の「ガレン」と音が同じであるという洒落が施されているのだが、その事を『モナ・リザ』に当てはめてみると、彼女の衣服の胸元にある幾何学模様が「VINCI」と解読する事が出来るそうなのだ。
つまり、それはダ・ヴィンチが生まれたヴィンチ村の特産である細柳細工を意味する事から、『モナ・リザ』がダ・ヴィンチ本人だという事を示しているとも考えられるのである。
うわ、中央の顔、化け物みたい。
また、『モナ・リザ』の背景についても謎がある。
遠くには独特な形に尖った山があり、右側には湖が、そこから流れる川には橋がかかり、左側には曲がりくねった道が描かれ、優雅さと不思議さが漂う景観となっている。
実は、この背景は、ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』を描き出す直前まで軍事技師として過ごしていた、イタリアのアレッツォ周辺の風景をあちこち組み合わせて描かれているという。
当時の肖像画として、こういった広大な景観の背景が描かれた事は珍しく、『モナ・リザ』は先駆的な作品の1つであり、この特徴は後の肖像画に受け継がれる事になった。
興味深い事に、この景観の地平線は平らではなく、画面右側が左側に対して明らかに高くなっているが、これは、一般的には山の上にある湖と見なされている。
しかし、これはダ・ヴィンチが意図的に仕掛けた細工で、左の風景を下げる事で、右側より左側から見た方が大きく感じられる様になっているのである。
昔から男女の概念はそれぞれ決まった位置と結びついており、左が女性、右が男性で、女性原理の信奉者であったダ・ヴィンチは、左側の『モナ・リザ』の方を立派に描いたという訳だ。
また、左側の川は道であるとの解釈もあるが、ダ・ヴィンチがその手記において、川や水についての考察やスケッチを数多く残している事から、川ではないかと推察される。
さらに、背景の右端と左端が、ぴったり風景として繋がるのである。
半分に切られた『モナ・リザ』は、右半身の方が左半身よりも小さく見え、1人の人物の左右がそれぞれ違う角度で描かれている様なのである。
これは、もはや1人の人物には見えず、左半身が男性、右半身が女性の如く、2人で1人の『モナ・リザ』が存在しているとも考えられるという。
モナ・リザってオカマだったんだ・・・。
ラファエロによる模写『モナ・リザ』は1503年3月から1505年5月の間に、サンタ・マリア・ノベッラ教会の「法王の間」の回廊で描かれたと言われている。
フィレンツェ共和国から委託されたボルジア軍の監視スパイ役を終えたダ・ヴィンチは、ここに3年間暮らしたそうで、この時、22歳のラファエロが彼のアトリエを訪れ、制作中であった『モナ・リザ』を模写したと言われているデッサンがある。
確かに『モナ・リザ』との類似点が多く見受けられるが、『モナ・リザ』とは背景が全然異なり、両端に柱が描かれている。
この柱は、「法王の間」の回廊の柱だと言われている。
『モナ・リザ』の絵の両端には暗い陰が描かれているが、実はこれは当初、この部分には柱が描かれていて、ダ・ヴィンチが後に切り取ったとか、16世紀半ばに額縁に合わせる為に切り取られたとか、1911年の詩人アポリネールを巻き込んだ盗難の際に切り取られたとかいう噂があったのだが、1960年代の科学調査で切断の跡はない事が判明している。
模写の割りには、オリジナルより顔が少女漫画チックになってたり、背景が違ったりするのは何故なんです?ラファエロの趣味?
うむ、それについてなんだがね、君は2005年3月26日に日本テレビで放送された特番において、スイス・ジュネーブの地下金庫に保管されている、もう1枚の『モナ・リザ』が本邦初(テレビで)という形で公開されたのを知っているか?
ええっ!もう1枚の『モナ・リザ』!?
そんなナメック星のドラゴンボール的なもんがあるんですか!?
そーいや、『モナ・リザ』って眉毛が無くて、何処となくピッコロに似てるよーな気がしてたんですよねー。
眉毛が無いのは、元々は薄く描かれていたのだが、時の経過によって消失したとされている。
そんな事より、これがもう1枚の『モナ・リザ』だ。
通称アイルワース(またはローザンヌ)版『モナ・リザ』と呼ばれている。
『モナ・リザ』が複数枚存在するという説は、昔から語られていてね、確かに、全体の構図、女性の体型はルーヴル版の『モナ・リザ』と全く同じである。
だが、ルーヴル版に比べて顔は若くて小さく、色白であり、やや冷淡な印象を受ける。
また、ルーヴル版では背景は緑豊かな山々が描かれているが、このアイルワース版『モナ・リザ』は荒涼とした山々である。
X線と炭素測定による分析によれば、使われているキャンバスや絵の具は、ダ・ヴィンチの時代のものと一致したという。
という事はつまり、このもう1枚の『モナ・リザ』こそが、ダ・ヴィンチが当初依頼された「ジョコンダ婦人の肖像画」であり、ラファエロが模写したものである可能性が高いのだ。
この事から、ダ・ヴィンチはラファエロが訪ねた時は、まだ肖像画として『モナ・リザ(アイルワース版)』を描いていたが、いつしか心に何らかの変化があり、彼の中にある、心象としての『モナ・リザ(ルーヴル版)』が描かれたという説が考えられるのだ。
だが、一説によると、このアイルワース版『モナ・リザ』は、1962年にロンドンのヘンリー・F・ピュリッツァーという人物が、鑑識家ヒュー・ブレーカー氏秘蔵の作品を絵画シンジケートと共同で手にいれたものであるという。
また、日本テレビの特番放送終了後、東北大学大学院の田中英道教授(西洋美術史)が、「この1点は、1980年代半ばにスイスの画商が売りに出そうとしたコピーであると、学会でほぼ結論付けられている」として、同局に抗議文を送ったそうである。
結局の所、このもう1枚の『モナ・リザ』がダ・ヴィンチの手によるものであるという、確たる証拠は無い。
へえ〜、なんかルーヴル版よりこっちの方が綺麗ですねえ。
体調の悪い仲間由紀恵って感じ。
Back number
FILE137:
死神ベンツ
FILE136:
謎の少年カスパール・ハウザー
FILE135:
オルメカの巨石人頭像
FILE134:
エゼキエルの幻視
FILE133:
地獄の声が聞こえる穴
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