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好事家の皆様、お待たせしました。久しぶりの廃墟ネタです。
ただ一口に廃墟と言っても、例えば非日常を味わう為の探検の舞台や、インスタ映えするような退廃的な建築美、
あるいは産業遺産としての歴史的価値など、人それぞれ重視するポイントは異なると思う。
当サイト的には、残留物や構造自体が特異的な物件なんてものがストライクゾーンである。
という訳で今回より複数回に渡って、そうしたヤバい廃墟を特集してご紹介していきたい。
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11月23日~26日に原宿で小嶋独観写真展『奉納百景』やるから皆来てくれよな! |
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師匠すまん、記事あpするの多分それ終わった後になるわ。 |
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ナチス博物館 |
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実は富士山麓パワースポット巡りの途中、気になる廃墟の視察もちゃっかり予定に捻じ込ませて頂いた。
その物件は、眼下に湖を望む高台にひっそりと聳え立っていた。
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ウネウネした坂道の途中、ちょうど道が二又に別れるポイントに、
遠目からもすぐに異質と分かる特徴的な建物があった。
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鉄柵が緑に覆われて内部はよく見えないが、
突き出した建物の上部は明らかに欧米の城を意識したような構造。
一方で窓ガラスが普通のアルミサッシだったりと、アンバランスな印象である。
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建物の手前では、子供の彫像が我々を見下ろしており、
なかなか素敵なオカルト臭を漂わせていた。
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というか、よく見ると右手がバールのようなものになっとる。
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奥には巨大な観音扉が見えた。
まるで内部にボスでも待ち受けていそうな雰囲気で、色々と想像が膨らむというものだ。
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さらには外壁におっさん達の顔面。
蜂の巣に目を引かれて視線を下ろしたら、
いよいよ言い逃れ不可能な異常性を発見して驚いた。
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どう見ても怪奇の館です、本当にありがとうございました。 |
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少し離れた場所には、先程のパラサイトされた奴とは別に、もう1体の子供の彫像があった。
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敷地内に掲げられた謎のプレート。
ヨーロッパっぽいドラゴンの紋章か何かを思わせる形状と、「1968」と記されているように見える数字が象られているようだ。
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プレートの斜め上にも2体の子供の彫像が見えた。
何気にオブジェ好きにはたまらない場所だ。
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穴と言えば、せっかくパワースポットで得たパワーがどんどん抜けてく気がするよ。 |
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敷地の隅っこの壁も独特な形状をしており、
ベタな落書きや有刺鉄線などがいい感じであった。
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意味あり気にあったトゲ付きの石柱。
一体何なのか不明だが、パッと見だと罠の様にも思えた。
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謎の洋館の敷地は、上空から見ると先の尖ったブーツみたいな独特な形状で、
全体的に緩やかな斜面になっている。 |
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その為、家を建てるのに向いてる土地では無い印象ながらも、
ベストを尽くした感がある。 |
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しかし君はアレだね、油断してるとすぐ廃墟を捻じ込んでくるね。 |
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いや、ちゃんと樹海とか別の場所も捻じ込んでるぞい。 |
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坂を上って、敷地の正面側に回ってみる。
どうやら塔は3階建ての屋上付きのようだ。
窓の位置はデタラメな感じで規則性が無い。
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窓枠の鍵の造りを見ると、恐らくバブル頃の物件だろうね。 |
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さすが師匠、伊達に『ワンダーJAPAN』や『八角文化会館』に記事書いてねーな。 |
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敷地内の様子。
草木が鬱蒼として荒れ放題の庭だが、手入れすればリカバリー可能な範疇のようだった。
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建物の側には、先程チラ見えした彫像があった。
ただ背後からのアングルだと、全く別の生物のようである。
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そして、建物の窓付近には、
さり気なくナチス・ドイツの鉤十字として認知されているハーケンクロイツが確かに掲げられていた。
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マジか・・・いや、JKみたいな若者言葉を使うなよ。 |
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これこそ、同地が「ナチス博物館」と呼ばれている由縁である。
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噂によると、ヒトラーが来日した際、この辺に訪れた事を記念して建てられたそうじゃよ。 |
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少なくとも史実では、アドルフ・ヒトラーが来日した事は一度もない。
ただし、ナチス・ドイツの青少年団体であるヒトラー・ユーゲントは、
日独の同盟強化に伴う青少年相互親善交歓事業の一環として、
昭和13年(1938)年8月に30名が来日している(写真は東京駅で彼らが敬礼する姿)。
そして、90日間に渡り日本各地を巡った中で、この廃墟がある場所付近にも訪れているようだ。
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少し引いたアングルで見た建物正面。
お城っぽくはあるが、別にラブホの廃墟という訳でも無いようだ。
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正面の門は堅く閉ざされており、
ガチ勢の廃墟マニアでも、侵入はなかなか困難そうであった。
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鉄柵の隙間から内部を覗くと、目の前はこんな感じだった。
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またもあった顔の彫刻。ヨーロッパの魔除けを彷彿とさせる。
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先程のものと同様の石柱がまたあった。
些細な部分だが、妙にこだわりを感じさせる装飾だ。
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車庫兼エントランスと思しき場所。
内部はガランとしており結構広い。
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奥の方にはステンドグラスの扉が見えた。実に特徴的な物件だ。
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2階の外壁には、鉄扉と鐘が取り付けられていた。
しかし、扉付近には足場も何も無い為、もし内部から開閉出来てもそのまま地面に落下する事請け合いな、トマソン的状態だった。
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ドイツ語らしきものが記された鎖状の看板。
錆び付きまくっているが、なかなか味がある。
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かろうじて、「Gisen schlos」や「museum」っぽい文字が読み取れるが、
どうにも意味不明であった為、ドイツにご友人がいるという同行者の方に、
その場で写真をエスカレして頂いた。
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しばらくして得られた返答によると、“schlos”というのは「城」という意味らしいが、綴り方が現在と少し異なるという。
そして“Gisen”は固有名詞と推察され、ドイツに同じ町名があるようなので、もしかしたら元ネタにした建物のある場所なのかもしれない。
ただ、下段の“museum”に冠する“●atuo”の表記については皆目見当がつかなかった。
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[※2018.02.08追記]
その後、現地調査を行った『ポンチハンター』のKUZEさんから、看板に関する有力情報を教えて頂きました。
この読みにくい文字はブラックレターの書体に当たるらしく、
ドイツ語で「Eisen Schloss(鉄の城)」、「Tatuo museum(タツオ博物館)」と象られている模様。
また、詳細はこちらの記事を参照して欲しいが、
一番よく分からなかった“Tatuo”の部分が、オーナーの個人名=タツオさんである可能性などをご指摘されている。
これが果たして、正解かどうかまではオーナーのみぞ知ると言った感じだが、非常にしっくり来るものがある。 KUZEさん、ありがとうございました。
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後に調べたところ、この建物は一応個人の別荘らしいとの事だった。
その為、せいぜいコレクションを集めた私設の展示は行っていた可能性は考えられるが、
看板通り博物館として正式に営業されていたかどうかは怪しい。
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隣にある普通の別荘が、割と新しいのに売り出し中じゃな・・・。 |
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色々と我慢できない事があったのかもしれないね・・・。 |
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また、少なくとも90年代半ば位からこんな状態なのだという。
やはりバブル時代の遺産なのかもしれない。
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しかし個人の別荘であるにせよ、オーナーが何故わざわざこんな
ご近所が眉をひそめるような演出を施したのか、その最大の謎は不明のままだ。
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一説にナチスの高官は戦後、南米のパタゴニア一帯に逃亡したと言われ、
ヒトラー自身も影武者作戦で戦火のベルリンを脱出した後、
アルゼンチンのバリローチェ近郊、アンデス山脈の麓にあるナウエル・ウアピ湖の湖畔に建てられた邸宅(INALCOハウス)に隠れ住んでいたとされる(参照:ヒトラー逃亡説)。
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また、同盟国の日本にUボートで亡命したとする説もあるようだ。
だからと言って、ヒトラーの一味が富士山の麓に隠れ住んだと考えるのは、さすがにトンデモ妄想大暴走だが、
なんとなく今回の物件が、南米の隠れ家とされる別荘を思わせる立地なのが興味深い。
訪れても外観を眺める事しか出来ない為、
少々申し訳ない気持ちで立ち寄ったのだが、同行者には意外と好評な場所で何よりだった。
考えてみれば、これだけ路上からツッコミ要素の多い廃墟も珍しいかもしれない。
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