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[2009.04.29]

イタリア怪紀行⑥
~THE 魔界遺産/フィレンツェ歴史地区~



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BGM:『Les enfants de la Terre ~地球のこどもたち~』


<1000万画素撮影>

(以下、市村正親っぽく)
花の都フィレンツェ。トスカーナ州の州都。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、サンドロ・ボッティチェッリなどの、建築、絵画、彫刻における芸術家の巨匠が活躍したルネッサンス文化の中心地だ。
紀元前10年、エトルリア人が隣町フィエーゾレに造った集落を、侵攻してきたローマ人が“花の女神”を意味するフロンティアと名づけ、植民地としたのがこの街の起源である。
都市国家として13世紀にはフィレンツェ共和国、16世紀にはフィレンツェ公国、そして、トスカーナ大公国の首都となる。
15世紀に、銀行業を営み権力を握った大富豪メディチ家の庇護の元、ルネッサンス芸術が開花し、アルノ川を挟んで町全体にルネッサンス期の建造物が立ち並ぶ為、その様相はしばしば“屋根の無い美術館”と称される。
『フィレンツェ歴史地区』は1982年に世界遺産に登録された。

ルネッサーンス!

五月蝿いですって!
もうちょい大人しくハシャいで下さいヨ!

あいにくの天気だけど、街の眺望は素晴らしいわね・・・

って、アンタさっきから邪魔なのよッ!

寒いよ、冷たいよ、高いよ・・・。

じゃあ、とっとと降りんかッ!

バカと煙は高い所が好きってのはマジだわね。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
「花の聖母マリア」の意味を持つフィレンツェのシンボルだ。
ドゥオーモ(大聖堂)、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ジョットの鐘楼の三つの建築物で構成される。
1296年より140年以上の歳月をかけて建設された為、ゴシック、初期ルネサンス、ネオ・ゴシックの各様式が混在している。
全長153m、最大幅90m、高さ107m。
八角形の大クーポラの内径は43m。
聖堂の大きさとしては世界で4番目に大きい。
後にローマ法王からサン・ピエトロ大聖堂の円蓋設計を依頼されたミケランジェロは、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂より美しいものは造れない」と語ったという。


ドゥオーモ内部。
イタリア独特のゴシック様式で、1526年から1660年にかけて作られた大理石の床が広がっている。
完成時は、3万人を収容出来るヨーロッパ最大の教会であった。
(現在は、サン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのサン・ポール大聖堂、ミラノのドゥオーモに次ぐ)
14世紀に至るまで、建築と芸術において主導権を握る事の無かったフィレンツェだが、ライバル国のピサやシエナの大聖堂の建立に触発され、これを凌ぐ大聖堂の建設を目指し、フィレンツェ羊毛業組合(建設を独占的に支援する事となった)は、最も高名な彫刻家であったアルノルフォ・ディ・カンビオにその設計を依頼した。

大型のショッピングモールみてえな雰囲気じゃな。

そんなダメな感想がありますかッ!
もうちょい彦馬呂を見習って下さいヨ!

政治家だったらワイドショーもんよ!
関係者各位に失言を謝りなさいよバカッ!

こ、この度は誠に・・・ドゥオーモすいません。

・・・四面楚歌の世界遺産やぁ~!(彦馬呂)

1296年9月8日の起工式において、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」と命名された。
当時、市評議会は聖堂建設の為に、輸出する全ての物品に対し関税を、市民に対しては人頭税を課したという。
現在の聖堂は3代目に当たり、最初のものは4世紀から5世紀に古代ローマ時代のドムス跡に建設され、サンタ・レパラータ聖堂と呼ばれた。
しかし、ビザンティン時代の戦役によって破壊された為、7世紀から9世紀にかけて再建されたそうだ。
今日でも、聖堂の地下でサンタ・レパラータ聖堂の遺構の一部を目にする事が出来る。


クーポラ内側の天井に描かれた総面積3600平方mのフレスコ画『最後の審判』。
画家で建築家のジョルジョ・ヴァザーリとフェデリコ・ツッカリらによって描かれた。
元々はヴァザーリが1572年から描き出したものだが、彼が1574年に亡くなった為、ツッカリが後を引き継ぎ、1579年に完成した。

いやあ、超大作ですなあ。ずっと見てると首が痛いですが・・・。

ほんと、綺麗だわ。こんなの飽きもせずよく描けたわねえ。

きっと「ウォーリー」が何処かにさり気なくいるはずじゃ・・・!
探せ探せ・・・!

いねえよッ!

6ユーロ払って、聖堂の南側に建つ「ジョットの鐘楼」(高さ82m)の414段ある階段を登っていきます。
1334年に、ゴシック絵画の巨匠ジョットの設計により建設が始められるも、1337年に基底部分の建築が済んだ時点で彼が死亡した為、以降は弟子のアンドレア・ピサーノ、1350年以降は聖堂の建築を指揮していたフランチェスコ・タレンティが引き継ぎ、1359年に完成したものだ。

くっ、おのれ愚民め・・・。
ゲストに階段登りを強いる上に金を請求するたあ、まったくボレえ商売じゃぜ。エレベーターつけろや。

運動不足で鈍った体にこれはキツいですよ・・・。
きっと明日は筋肉痛デイですな・・・。

ったく、アンタ達だらしないわねえ。
年寄りじゃないんだからさ、もうちょいシャキッとしなさいよ。

エレアさんは元気ですねえ・・・。

フッ、さすがは鉄槌返しの魔女・・・!
パンツは白いが誰よりも男らしいな・・・!

こんのドアホッ!!もっぺん登ってこーいッ!!!

ドゴッ!

あがががーッ!

ゴロゴロゴロゴロッ・・・!

だッいまおーッさッまあああーッ!!?

ドコッ!ドコッ!ドコッ!ドコッ!ドコッ!

何すんだオラオラオラーッ!!

んなもんに八つ当たるなッ!

そんなこんなで、ようやく塔のてっぺんに到着。
強風と小雨のコンボが身に染みる素敵な場所だ。

おお、やっと着いたか!しかしマッハ寒いなコラ!

有名な場所のはずなのに、我々以外誰もいないですね。

あっちのドームの方には結構人がいるみたいよ。

目の前には、ドゥオーモのクーポラが威風堂々といった感じで聳え立っている。各種媒体でよく見かけられるフィレンツェ定番の眺めだ。
この巨大なクーポラは、重さ40,785トン、400万個を超えるレンガが用いられている。
建築家フィリッポ・ブルネレスキによる、それまでのローマ、ゴシック建築では必ず必要とされた仮枠をあえて使わず、独立した2重の構造を持つドームを築くという案に基づいて、1420年8月7日に建設が開始され、1434年8月30日には頂頭部の円環が閉じられて一応の完成となった。
クーポラ頭頂部にのせるランターン(明り取りの先端部)については、建築家ミケロッツォ・ディ・バルトロメオの設計が採用され、ブルネレスキが死去する数か月前の1446年3月13日に建設が始まり、1461年に完成した。

あそこ滑り降りられたら楽しそうじゃなー。

んな事はジャッキー・チェンに任せておきゃいいんですよ!

ちったあ芸術的な事も感じなさいよ!

フィレンツェを一望出来る贅沢な眺め。
周囲に高い建物が無いのでよく見渡せる。
屋根の色が茶色で統一されているのがGJだ。


ヨーロッパ特有の、“街頭いきなり回転木馬”の姿もよく見える。

あっ、ちょっと何アレ!メリーゴーランドじゃん!可愛い~!

フッ、お前の方が可愛いぜ・・・!

えッ!?ちょっ、な、何よ、急に・・・!
へ、変な事言わないでよバカッ・・・!
そんなお世辞、べ、別に嬉しくなんかないわよ全然!

なーんちゃって!嘘に決まってんじゃろが!

くたばれッ!!

ドゴッ!

ぐはあッ!?

いやあ、実にバカですねえ・・・。

ところで、以前どっかの大学生がやっちゃって話題になりましたが、壁という壁一面に、各国から訪れた観光客の記念落書きがビッシリと書かれていました。
日本人によるものは比較的僅かであるものの、消さなきゃずっと残るものなんで、これはお恥かしい限りですね。人の事は言えねえか。
フルネーム書いてる奴までいましたよ。


晴れの日はもう少し街の色合いが鮮やかに見えるんでしょうが・・・。
でも、十分に私的世界の絶景100選上位に入るレベルですよ。

ねえ、さっきから何震える手でいじってんの?

あ?ケータイで“LIVE更新”しちょるんじゃよ。
現状をワールド・ワイド・ウェブで絶賛実況中継中じゃいドットコム!

“だいぶ放心”?何だかよく分かんないけど、アンタも好きねえ・・・。

大聖堂を後にし、アルノ川に架かるヴェッキオ橋にやって来ました。
イタリア語で「古い橋(ポンテ・ヴェッキオ)」を意味する名の通り、フィレンツェ最古のこの橋は、古代ローマに栄えたカッシア街道上にあり、アルノ川の最も狭くなった場所に架けられている。
3つのアーチ状の橋桁を2つの橋脚が支える形は、当時としてはヨーロッパ初の試みだったそうだ。


この橋は1117年と1333年の二度に渡り洪水で流されたが、1345年にタッデオ・ガッティによって改めて建造され、それから660年以上、当時のまま残っている。
日本で言うと鎌倉幕府が滅亡し、足利が天下を取って間も無くの頃からだ。
1557年の大洪水でフィレンツェの他の橋が全て流されてしまった時も、ヴェッキオ橋だけは奇跡的に残ったそうだ。
また、1944年には、ドイツ軍が連合軍の侵攻を妨げるべく、フィレンツェ中の橋を片っ端から爆破したが、この時もヴェッキオ橋だけは爆破を免れた。

へえ~、面白いわね。あんなとこで生活してるんだ。

ほう、橋の上に家があるとは挑戦的な。
日本でも橋の下には結構あるけどな。

そりゃホームレス・ハウスでしょうが!

両側に宝石店が立ち並ぶ橋のストリートを進む。

とても橋の上とは思えないですねえ・・・。

あらっ、ここら辺の店って殆ど宝石屋じゃない!
ねえ、ちょっと見てくわよ!そして何かアタシに買いなさい!

ちょっ、タンマ!お、おちち、落ち着けお前はッ!

橋の中央部には、16世紀のフィレンツェで最も著名な彫金師であったベンヴェヌート・チェッリーニの銅像があります。


橋の中央部からの眺め。雨の所為で川の流れは速い。
左に見える白い建物はウフィッツィ美術館です。


もともとこの橋の上には、衛生面と匂いの観点からフィレンツェ中の肉屋が全て集められていた。
しかし、1593年、当時のトスカーナ大公でメディチ家のフェルディナンド1世が、あまりの悪臭の酷さ故に、肉屋を全て撤去させた。
そして、それ以降は、橋の上には金銀細工の宝石店等が並ぶ様になったという。


商店の階上には、1565年3月から8月という僅か5ヶ月間で芸術家ジョルジョ・ヴァザーリによって建設された「ヴァザーリ回廊」がある。
メディチ家の一族が、ピッティ宮(私邸)からウフィッツィ美術館(公邸)を安全に通行出来る様にと繋げられたもので、約1kmに及ぶ回廊には、多数の歴代画家達が寄贈した肖像画コレクションが展示されており、予約すれば見学可能らしい。

なるほど、貴族専用連絡通路って訳ね。なかなか考えたわね。
アタシもスイーツ屋までのが欲しいわ。

さぞや庶民を見下ろす高みの見物生活は快適だった事じゃろうな。たまに窓からケツ出したりして。

アンタら、どんだけだよ・・・。

足の向くまま気の向くまま、適当に路地裏の通りをブラブラとウロついたりしてみる。
そこら中に石畳の道が敷かれ、窓が開け放された趣のある家が建ち並んでいて、実にいい感じだ。


・・・何やってんですか?

いや、いい壁があったから。雑誌の『LEON』みたいじゃね?

ピコハンが全てを台無しにしてますヨ!

ああ、ちょい悪バカって事ね。

んが?

フィレンツェの中心部に建つドゥオーモのクーポラは、色んな角度からその姿を目にする事が出来る。
もし道に迷っても、この巨大なランドマークを頼りに、大体の位置関係が把握可能なので便利だ。
今後も末永く、花の都をドッシリと見守り続ける事だろう。


よっしゃ!大体見て回ったし、これからピサの斜塔に行こうぜッ!

はあ?今からですか!?もう午後6時過ぎてるんですよ!

でーじょぶだって!
フィレンツェからピサまで列車で1時間くらいじゃし!

ったく、もう、落ち着きが無いわねー。
めんどくさいけど、まあ、いいわ。行きましょ!

オマケ

駅のホームに沢山ある黄色の刻印機。
イタリアの駅には改札が無い為、購入したチケットをこいつにガシャンと通して、日付スタンプを押す必要がある(「バリデイト」と言う)。
さもないと不正乗車と見なされ高い罰金を取られる。
(ただ、必ずしも乗務員がチケットを確認する訳ではないので、イタリアの鉄道システムは案外適当というか、大らかな感じ)
しかし、慣れないとこれが結構コツがいる代物で、たまに全然押せない時があって困った。

オマケ2

「裸になって何が悪い」でお馴染みダビデ像があるアカデミア美術館の前で販売していたお土産用の下着。意味が無い事山の如し。
だが、それがいい。

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