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[2019.05.11]

平成から令和へ!元号スポットを歩く



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永遠に続くかのように思われた「平成」もついに終わり、いよいよ新時代「令和」が幕を開けた日本。
直近では東京五輪や大阪万博が控えるなど、21世紀も佳境を迎えた感があるが、 何はともあれ、英訳「ビューティフル・ハーモニー」の通り、この国や人々にとって素晴らしい時代となる事を祈るばかりだ。
普段は時事ネタに積極的でない当サイトだが、今回はこの歴史的な改元を祝し、先日訪れた元号に縁ある地を簡単にご紹介したい。


政府発表の通り、「令和」という元号の典拠は、史上初めて日本の古典『万葉集』から選定された。
具体的には、同書の巻五における梅花の歌 三十二首の序文の一節「初春の令月にして、気淑く風和ぎ」である。
この梅花の歌は、天平2年(730年)1月13日に、大宰帥(大宰府の長官)である大伴旅人の邸宅で催された宴の様子を表しており、 「梅花の宴」とも呼ばれている。


そんな訳でやってきたのが、大宰府政庁跡(福岡県太宰府市)。
7世紀後半の奈良・平安時代、九州全体を治めた役所・大宰府の中心だった場所である。
しかし、かつて重要な地方行政機関だった同地も、今では石碑(都府楼跡)や基礎跡などが一部残るのみで、 子供達が元気にサッカーする原っぱと化し、悠久の時の流れを感じさせられる。


「正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しきを経め」。
万葉集巻五の梅花の歌 三十二首の歌のひとつで、宴の席上で最初に詠まれたものらしい。



梅花の宴が行われた大伴旅人の邸宅は、現在の坂本八幡宮が建つ場所にあったとされる。


境内の中央にあった「令和」額縁のセルフサービスコーナー。
日本中が注目した新元号発表時の菅官房長官の如く、誰でも額縁を掲げて記念撮影出来るようになっていた。


訪れたのが発表から約10日後だったので、参拝者が途切れる事なく押し寄せ、令和フィーバーぶりが伺える空気感であった。



神社のすぐ隣には、今もたくさんの梅の木が生えていた。
確かに歌の一つでも詠みたくなるロケーションである。


このすぐ近くには、大宰府展示館という見逃せない施設がある。



同館では、政庁の模型や出土品などの展示の他、発掘された実際の遺構の一部が見学できる。


しかし、「令和」が発表された4月1日以降は、この梅花の宴を再現した人形ケースが一番の見所となった。




博多人形で見事に再現された宴のジオラマ。
人形師・山村延燁氏の作品らしい。


訪れた時は、ちょうどテレビ局も撮影しに来ていた。
従来は1日50人程度の来館者数だったそうだが、俄かに注目を集めた事で激増し、この1ヶ月あまりで1万人以上が訪れているとか。
少なくともしばらくは、“令和発祥の地”として賑わい続ける事だろう。


続いて、福岡県から移動し熊本県へ。
電車に揺られて到着したのは、熊本市にあるJR豊肥線の平成駅。
つまり、“平成最後の平成”という訳である。


メディアでは比較的、岐阜県の平成(へなり)村の方が取り上げられていたが、こちらは読み方も間違いなく“へいせい”である。



大通りの高架下に位置する駅の外観。
「JR平成駅」の横には、「昭和タクシー」の看板が並んでいるという、実に絶妙な配置であった。
ちなみに、自販機では「大正製薬」の栄養ドリンクも売られていた。


駅前には、「平成駅開設記念の碑」なるものがあった。
駅がオープンした平成4年7月に建立されたらしい。


「平成2丁目1」と記された電柱。
そう、駅名だけでなく、この辺一帯の地名が「平成」なのだ(1~3丁目まで存在)。


かつては田園地帯が広がっていた同地も、 長年の区画整備計画により「平成ニュータウン」という住宅街に生まれ変わり、平成3年2月の町名変更で「平成」の地名が誕生したという。
その為、元々あった平成村と違ってナチュラル・ボーンではないが、 平成という元号に直接乗っかっているという事で、ある意味では何処よりも平成を象徴する場所と言える気がする。


平成の町を南北に縦断する「平成大通り」。
その未来(さき)には、一体どんな景色が広がっているのだろうか。

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