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[2014.05.31]

グリゴリー・ラスプーチン
~ロマノフ王朝を影で牛耳った怪僧~



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怪僧ラスプーチンは、革命前夜のロシアに彗星の如く現れ、魔力とも取れる能力を発揮して皇室の奥へ食い込み、権力を欲しいままにしてロマノフ王朝を影で操り、そして、ロシア帝国崩壊の原因を作った悪人とされる謎の人物です。



【キリストの再来か、それとも野獣か】

グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチン(Grigory Yefimovich Rasputin、1871年1月23日? - 1916年12月29日)▲

その男、グリゴリー・エフィモヴィチ・ラスプーチンは、自称祈祷僧であり、謎に包まれた経歴や怪し気な容貌から怪僧・怪物などと呼ばれ、もともとは帝政ロシア末期のシベリアはウラル山脈の東、チュメニ州トボリスク付近のポクロフスコエ村出身の農家の次男だった。
12歳の頃、母親が亡くなり、家が火事で消失し、兄は川で溺れたのが原因で肺炎にかかって死に、更に姉も川に落ちて溺死してしまい、幸せとは言えない少年期を過ごしたそうです。
18歳の時、ベルコツーレの修道院に入ったものの1年程で帰郷して、20歳で結婚した後、男児を得るも、わずか6ヶ月で逝去してしまい、悲しみに打ちひしがれていたラスプーチンは、1891年、野良仕事をしていた際、空中に自分を手招きする様な聖母マリアの姿を見たそうなんですよ。
これを契機として、ラスプーチンは突然、父親や妻に「巡礼の旅に出る」と言い残して村を出て、当初の目的地はギリシアのアトス山だったが、更に足を延ばしてトルコ、シリア、ヨルダン、そして聖地エルサレムまで赴いたそうでしてね、2年間に渡り、総行程1万5000kmを徒歩で移動したそうなんですよ。
長い巡礼を終えて再び帰郷したラスプーチンは、妻にすら見分けがつかない程に変貌を遂げており、極めて神秘的な能力を身につけていたそうなんですね。
まあ、もともと彼は、少年時代から馬泥棒の名を言い当てたり、動物の傷に手を当てるだけで治癒させたりしたそうで、生来の特異の持ち主だったみたいなんですがね。
1903年、聖セラフィムの列聖式が行われた折、サンクトペテルブルク(ペテログラード)に出てきたラスプーチンは、皇帝ニコライ2世と皇后アレクサンドラの間に帝位後継者が授けられる様にと願う祈祷会に出席し、「1年以内に後継者が生まれるだろう」と予言した。
すると、それは見事に的中し、翌年8月に、帝位後継者が誕生し、アレクセイと名づけられた。

1914年、大勢の信者(女性多め)に囲まれるラスプーチン▲
秘密結社フリィスティの性的儀式の様子▲

当時34歳であったラスプーチンは、サンクトペテルブルクに居を構える様になり、その後も、ヒーリング能力で重病や難病の人々を次々に治癒させ、キリストの再来として信者を増やし、「神の人」と称される様になり、名声は高まる一方だったそうです。
患者は圧倒的に女性が多く、治療の際は患者と2人きりで個室に篭って行われたらしく、治療法は明らかではないものの、性的な要素が多分にあったみたいなんですね。
というのも彼、ロシア正教会の僧侶であったと同時に、宗教的秘密結社フリィスティのメンバーでもあったそうなんですね。
この組織は、18世紀初頭(17世紀半ばとも)、ボルガ河の上流域で生まれ、たちまちロシア全土に拡大していき、その実態は明らかではないんですがね、どうやら深夜に秘密集会を開き、集団的なオルジー(性的放縦)にふけり、男女入り乱れての肉の饗宴を行ったりしたそうなんですよ。
彼らは罪を犯す事が贖罪の前提と考え、罪を犯せば犯す程、神の救いも大きくなるという逆説的な考え方のもと、あえて出来るだけ多くの罪を犯すべく、オルジーにふける事で自らの罪を深めていたとか。
そんなフリィスティの関係から見て、ラスプーチンはある種の性の魔術師であった様で、彼に渇きを癒された貴婦人達も少なくなく、彼の名はやがて社交界にも広がり、とうとうアナスタシア大公夫人の紹介で、1905年11月1日、ロシア皇帝ニコライ2世に謁見するまでになった。
ニコライ2世はその日の日記に、「トボリスクから来たグリゴリーという名の神の如き人物に会った」と記しているんですよ。

ヒーラーとして脅威の能力を発揮した怪僧ラスプーチン▲
それからしばらく経った1907年7月、皇帝一家のラスプーチンに対する信頼を不動のものとする出来事が起こった。
ラスプーチンが誕生を予言したアレクセイ皇太子は、生まれつきの血友病患者であり、ちょっとした傷でもすぐに出血し、血が止まらないという難病に悩まされていたそうでしてね、この時も彼の出血が止まらず、3日間も高熱にうなされ、侍医もさじを投げる状態の為、皇帝の使者の要請を受けたラスプーチンは、その場で長い祈祷を行い、「皇太子はすぐに快方に向かわれる」と宣言したそうなんですよ。
すると、まさにその瞬間から、アレクセイ皇太子は回復し出したそうなんですね。
その治療法は催眠療法の一種ではないかと推測され、そもそもラスプーチンの祈祷や秘術は、密教技術を用いた気功の一種である秘伝功と思われ、ロシア正教会在住時に身につけたと考えられるそうでして、人によっては言語を絶するオーラを受け、通行中に出会ったある女性は、ラスプーチンの視線を受けて立ち竦んだという証言を残しているみたいなんですね。

ロシア帝国のロイヤル・ファミリー▲
とにかく、こうして絶大な信頼を得たラスプーチンは、皇帝夫妻から「我らの友」と呼ばれる様なった。
特に、ドイツ人だった皇后は、ロシアの風土に馴染めず、孤独な日々を送っていたそうで、ラスプーチンに癒しを求め、次第に様々な助言を仰ぐ様になり、皇帝夫妻の権威を傘に政治に口を挟む様になった。
すると周囲からは批判の声があがり始め、怪僧との縁切りを勧める者もいたそうですが、その後も何回か皇太子がラスプーチンに救われるのを見て、優柔不断な皇帝はなかなか決心がつかず、黙認する事にした。

ラスプーチンと皇帝夫妻を描いた1916年の風刺画▲
当時のロシア社会は、日露戦争の敗北、打ち続く労働運動、革命運動の激化によって動揺していたものの、皇帝への表立った非難は抑制され、多くの場合、失政の責任は側近に向けられる事が多く、ラスプーチンの過去や言動に注目が集まり、馬泥棒の経歴が暴かれ、女信者との淫らな関係が新聞に報じられた事もあって、多くの廷臣がラスプーチンの排除を望む様になったが、ヒーリング能力による奇跡を度々演じて見せたおかげで、彼の発言力はますます強大になっていった。
ある時、ラスプーチンが旅行中に皇太子が重態に陥ったという急報を受け、すぐに霊力を封じ込めた電報を打ち返した。
すると、電報を受け取った瞬間、皇太子の体調ははたちまち回復したそうなんだ。
また、皇太子の血友病は、13歳になれば完治すると予言しており、実際にそれは的中したそうです。
皇后とラスプーチンの共通の知人アンナ・ヴィルボヴァが列車事故で瀕死の重傷を負った際にも、ラスプーチンが彼女の手を握って祈ったところ、すぐに回復したそうなんですね。
しかし、第一次世界大戦が勃発し、ニコライ2世が首都を離れて前線に出る事が多くなると、内政を託されたアレクサンドラ皇后は、何事もラスプーチンに相談して政治を動かし人事を配置する様に。
するとやがて、前線から届く芳しくない戦況から、敵国ドイツ出身であった皇后とドイツの密約説が流れ、更には皇帝不在中の皇后とラスプーチンの愛人関係までが真しやかに噂される様になった。
その結果、有力者達は私利私欲に走り、人心は皇室から離れ、そして、ラスプーチンは皆の憎しみを一身に背負い、暗殺されてしまったんですね。


【暗殺】

フィリックス・ユスポフ侯爵▲

ラスプーチン暗殺事件の首謀者は、皇帝と姻戚関係のあった大富豪フィリックス・ユスポフ侯爵で、その共謀者は、皇帝と従兄弟のドミトリ・パブロヴィッツ大公、国会議員のプリュシケヴィチ、軍人のスホーチン大尉、医師のラゾヴェルトといった面々の、「ブラック・ハンドレッズ」なる反動的な政治団体によって実行されたそうでしてね、彼らはロマノフ王朝へのラスプーチンの影響力が日に日に強まるのを懸念していたそうなんですよ。
1916年12月29日、ユスポフは、ペテルブルクのモイカ宮殿(ユスポフの別邸)に、妻で美人として有名であったイリナと会って欲しいという名目で、仲間内で「黒い悪魔」と呼んでいたラスプーチンを晩餐に招待した。
楽隊が奏でる音楽の中、上流階級の男女で、華やかな賑わいを見せた大広間での食後、日付が変わろうとした頃、ユスポフがラスプーチンを地下室で飲みなおそうと誘い、青酸カリを10人分の致死量混入させたワインとケーキを振舞った。

毒入り晩餐の場面を再現する蝋人形▲
ところが、ラスプーチンはそれらを平然と飲食して平らげた為、戦慄して焦ったユスポフは、祈りを捧げていた彼の背中を拳銃で撃った。
すると、ラスプーチンは断末魔の呻き声を発して膝から崩れ落ち、その場に倒れた。
そして、残りの4人が上階から降りてきて、医師のラゾヴェルトがラスプーチンの脈を取り、無言で頷いたそうです。
しかし、パーティーは終わったものの、上階にはまだ客が残っていた為、すぐに死体を処理する事は出来ず、5人は一旦上階へ戻った。
でもって、午前3時頃、ユスポフが様子を見に、再び地下室へ降りたところ、それまで身動きもせず血の海の中に転がっていたラスプーチンが突如、獣の様な声を発して立ち上がり、ユスポフに掴みかかったそうなんですよ。
あまりの恐怖で顔面蒼白となったユスポフは階段を駆け上がって中庭に逃れ、騒ぎを聞きつけて共謀者も駆けつけた。
すると、ラスプーチンも中庭に現れた為、国会議員のプリュシケヴィチが更に4発の銃弾を発射し、うち2発が命中して雪の上に倒れたところを、鉄棒で頭を滅多打ちにし、全員で殴る蹴るの暴行を加えたそうです。

ラスプーチンが投げ込まれたネヴァ川のペトロフスキー橋▲
凍結したラスプーチン(享年47歳)の遺体▲
手足はロープで縛られ、えげつない事になっている。

しかし、異常にしぶといラスプーチンは、それでもまだ息があったので、身体をロープでグルグルに縛られ、真冬の凍てついたネヴァ川のペトロフスキー橋まで車で運ばれて、氷を割って空けられた穴に投げ込まれたそうなんですよ。
しかし、ある目撃者によれば、ラスプーチンはそれでもなお死なず、彼はネヴァ川から泳いで脱出し、十字を切ってようやく凍死したとも言われているんですね。
翌1917年の1月1日午前、凍結したラスプーチンの遺体が発見され、当時の検死の結果、肺に水が入ってい為、死因は溺死とされた。
銃弾の命中部位は額の中央部、心臓部、首部の3ヶ所であり、いずれも常人には致命傷になる部位なんですがね、ラスプーチンは溺死するまで、その心臓は止まらなかった様なんですよ。
もっとも、ソ連崩壊後に行われたロシア法医学局の医師達による再検証によれば、溺死ではなく、額中央部の銃創が致命傷になったと分析しているそうですがね。
また、ラスプーチンが猛毒の青酸カリによって死ななかった理由としてはですね、検死により毒物が検出されなかった事から、そもそも毒殺説が単なる作り話であるとも考えられるし、また、当時ロシアに多く存在したという、いい加減な薬屋から購入した偽物の青酸カリを盛ってしまったってな事も有り得るみたいなんですね。
その他にも、適切な保存状態にせず、効果を失った青酸カリであったとか、ラスプーチンが無胃酸症か低胃酸症であった為、シアン化水素が発生しなかった等、まあいろいろ言われているそうです。


【己の死とロシアの未来を予言】

ラスプーチンとは何者だったのか?▲
余談だが、サンクトペテルブルクの博物館には、 暗殺者達に切り取られた「ラスプーチンのペニス」とされる、約33cmの巨根のアルコール漬標本が保存されている。

ところで、ラスプーチンは1916年11月に、ニコライ2世に対して預言書にして遺言書とも取れる書簡を送っており、「私の生涯は来年(1917年)1月1日以前に終わるでしょう。その暇乞いに参りました。私を殺す者が農民であれば、皇室は数百年に渡って安泰でしょう。しかし、もし、私を殺す者の中に陛下のご一族がおられれば、2年以内に陛下とご家族は悲惨な最後を遂げる事となり、そしてロシアは長きに渡って多くの血が流される事となりましょう」ってな事を記していたそうなんですよ。
実際、ラスプーチンの暗殺には、皇帝と従兄弟のドミトリ・パブロヴィッツ大公が共謀しており、1917年11月のロシア革命によってロマノフ王朝は崩壊し、その後、世界最初の社会主義国家が誕生する。
そして、虜囚となったロシア最後の皇帝ニコライ2世とその一家、皇太子アレクセイを含むロマノフ皇族11人は、ウラル山脈地方のエカテリンブルクに幽閉され、1918年7月16日に全員が地下室にて銃殺処刑されたそうです。
(一説では一部の者は逃れたとも)
そもそもラスプーチンは、政治に強い関心は無く、皇帝の政策決定にも大きな影響を与えなかったそうで、第一次世界大戦参戦を主張する皇帝に対して不戦を説いたり、革命派やアナーキストによる運動激化を考慮して、農民の年貢や税金負担軽減等、農民出身の聖職者ならではの提言をした事もあったそうですが、それらが実際に用いられた証跡は無いそうです。
言ってしまえば、 実際は単なる皇帝の取巻きの1人に過ぎなかった彼を、皇后があまりにも重用し過ぎた為、それを良く思わない者達から悪人のレッテルを貼られ葬られてしまったってな訳なんですねえ。


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