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[2013.07.13]

ダ・ヴィンチ・コードの謎
~名画に隠された暗号と聖杯伝説~



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※本記事はダン・ブラウン著の小説『ダ・ヴィンチ・コード』のネタバレを含みます。これから読む予定のある方はご注意ください。
また、本記事では専門用語が数多く登場する為、併せて「暗号を解く為の用語集」もご参照ください。


【レオナルド・ダ・ヴィンチとは】


レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の自画像▲
赤パステルで1512年から1515年ごろに描かれた。

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の自画像▲
赤パステルで1512年から1515年ごろに描かれた。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネサンスを代表する芸術家であり、同時に彫刻家・建築家・音楽家として超一流の腕を持ち、築城・土木・造兵術・解剖学・生物学に通じた科学者としても多くの実績を残し、思想家・哲学者でもあり、さらに体力や運動神経も人並みはずれ、大変な美貌の主でもあり、ルネサンスの理想とする万能の人(ウォーモ・ウニヴェルサーレ) と称された天才である。そう、まるで私の様なね。
1452年4月15日に、イタリアのトスカーナ地方にあるヴィンチ村で、公証人セル・ピエロ・ディ・アントニオとカテリーナとの間の庶子として生まれる。
この為、「ヴィンチ村の」という意味のダ・ヴィンチと呼ばれるようになった。
幼くして母と引き離されて寂しい環境の中で育ったダ・ヴィンチは、唯一の楽しみとして自然を観察して絵を描き始めたそうだ。


ヴェロッキオとレオナルドが描いた『キリストの洗礼』、1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館(マドリード)▲

ヴェロッキオとレオナルドが描いた『キリストの洗礼』、1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館(マドリード)▲
その後、同居していた祖父が亡くなった為、翌年に一家は花の都フィレンツェに移り住み、1466年、ダ・ヴィンチが14歳の時、彼の描く絵があまりに突出していた為、父親はフィレンツェを代表する彫刻家・画家だった友人のアンドレーア・デル・ヴェロッキオの工房に弟子入りさせた。
しかし、ダ・ヴィンチが師匠ヴェロッキオの『キリストの洗礼』の助手をした際、ダ・ヴィンチの才能に驚嘆したヴェロッキオは以後筆を折ったと言われる。
1480年にフィレンツェで独立し、1482年からミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えながら自らの工房を開いた。


『洗礼者ヨハネ』、1514年頃、ルーヴル美術館(パリ)。
ヨハネのモデルは弟子のサライだといわれている▲

『洗礼者ヨハネ』、1514年頃、ルーヴル美術館(パリ)。
ヨハネのモデルは弟子のサライだといわれている▲
この頃、画家の仕事の助手としてサライ(本名ジャコモ)という美少年を引き取ったが、彼には盗み癖があり、ダ・ヴィンチはサライ=子悪魔という意味をつけて可愛がったという。
1495年、ミラノの聖マリア ・デレ・グラツィエ修道院から、修道院の食堂の壁画制作を依頼される。この作品が『最後の晩餐』だ。
イエスとユダの表情にさんざん悩んだ挙句、1498年2月に、ようやく完成させたという。
そして1500年、ルドヴィーコが失脚すると、ダ・ヴィンチはフィレンツェに戻り、アルノ川水路変更計画やヴェッキオ宮殿の壁画等に取り組んだ後、1502年に、フィレンツェの資産家フランチェスコ・デル・ジョコンダから、愛妻エリザベータ(エリザベス)の肖像画を依頼され、終生制作を続け事になる『モナ・リザ』に取り組みだす。
1506年、ルイ12世の招きで再びミラノに赴き、宮廷画家となり、1513年には教皇レオ10世の招きでローマへ。
そして、1517年にフランソワ1世の招きで、フランスのアンボアーズ近郊のクルー城に赴き、余生を過ごし、1519年5月2日に67歳で没した。
ダ・ヴィンチはアンボワーズにある聖フロランタン教会に埋葬されたそうだが、その後、墓が暴かれてしまい、遺骨の行方はわかっていない。

ダ・ヴィンチの肖像画、これずっとサンタさんかと思ってましたヨ。

脳に栄養が足りてるのかね君は・・・。
この肖像画は、長年ダ・ヴィンチの自画像として一般的に認知されてきたが、現在では、後から作られた単なる人物像だという事が判明している。
ダ・ヴィンチは、絵を描く為に構想を練り、膨大な数の素描やスケッチを書いたが、肝心の作品をなかなか描き出さず、書き始めても依頼主に渡さずに終わっているものもあり、未完の作品が多い画家である。
そんなダ・ヴィンチが天才と呼ばれる様になったきっかけは、彼が死んで400年経ってから発見された1冊の手稿(ノート)による。

へえ、400年も経ってからなんだ。よくそんなに残ってましたね。
迂闊に日記とか付けられないなあ。


ウィトルウィウス的人体図
これも鏡文字を用いたダ・ヴィンチの手稿だ。

ウィトルウィウス的人体図
これも鏡文字を用いたダ・ヴィンチの手稿だ。
うむ、その手稿には、1万3000ページにも渡って、ダ・ヴィンチの発明のアイディアが書かれていたんだが、そこに記されていた文字が普通ではなかった為、400年間誰も解読出来なかった。
それは、鏡文字という手法でね、鏡に映った様に、左右逆向きに文字が書かれ、また、文章は右から左へと書かれていたのだよ。
この鏡文字は、ダ・ヴィンチが他人にアイディアを読み盗られない様に書いたものと一般に解釈されている。
この時代には特許制度というものが無かったし、何より当時は教会の教えが絶対的なものだ。
教えにそぐわない異端な考えを大っぴらには書けなかったのだろう。
だが、一説にはダ・ヴィンチは絵やスケッチは右で描いていたそうだが、本来は左利きで、この様な鏡文字を使用していたのは、単に読み書きに関する教育をあまり受けず、幼い頃からの習慣を直さなかった為だとも言われている。
また、近年有力なのが、ダ・ヴィンチは自身の研究成果を発表する為に、手稿をそのまま印刷用の版におこせる鏡文字を書いたという説だ。
ダ・ヴィンチは、凸版印刷術が実用化される300年以上も前に、当時ドイツで発明されたばかりの印刷機の、より優れたものを考案し、その設計図を残していた事からも、そう考えられる訳だ。
また、実はダ・ヴィンチは無口で、口下手であり、極端に語学が出来なかったそうで、脳の頭頂葉が上手い事機能していない障害であった可能性が あるのだ。
脳の頭頂の部位は、文字等の視覚情報が目に入ってきた時に、前後左右の認識について判断する役割をしているが、これがキチンと働いていないと、文字を書く時、左右が逆になってしまうそうだ。

たしか、昔の日本の新聞とか看板の横文字は、右から左に書かれてましたよね?
って事はですよ、昔の日本は、頭頂葉に障害がある人が多かったって事に・・・

無知の知を知りたまえッ!
当時は左横書きが欧米風、右横書きが日本風という認識だったんだよ!まったく、危ない発言をしやがって・・・。
ところで、ダ・ヴィンチは生涯女性と親しい関係になる事は無く、独身だったそうだ。
1476年、フィレンツェにいたダ・ヴィンチは、当時有名な男娼だった17歳のヤコポ・サルタレリ にモデルとして連絡を取った事で同性愛者として匿名で告発され、しかも他の3人の若い男性との同性愛者として容疑がかけられたが、証拠不十分で放免されている。
ダ・ヴィンチの伝記を書いた作家ロバート・ペインは、ダ・ヴィンチは男性と女性を同様に愛する事が出来たと確信していた様で、また、最近の研究者達は、ダ・ヴィンチが最も愛したのは、弟子で助手だったサライであったと考えているそうだ。

へえ、ダ・ヴィンチって、BLだったんだ・・・。
さすが世の先を行く人は違いますね。


【『モナ・リザ』の謎】


『モナ・リザ(Mona Lisa)』▲
(クリックで拡大)

『モナ・リザ(Mona Lisa)』▲
(クリックで拡大)
『モナ・リザ(Mona Lisa)』は、黒い衣装を着た1人の女性が、わずかに微笑んだ半身の肖像が描かれている、歴史上最も有名な油絵である。
ダ・ヴィンチは1503年にこの絵を描き始め、死の床につく4年後まで筆を入れ続けたそうだが、ついに未完に終わり、彼は生涯この絵を手放す事は無かった。
ポプラ材に描かれたこの絵には、筆で描いた後を指でこすり、筆跡を隠してしまう「スフマート」と呼ばれる技法や、背景の遠くにあるものをぼかして描き、奥行きを表現する「空気遠近法」という、当時にしては画期的なダ・ヴィンチ独自のぼかし技法が使われており、現在はパリのルーヴル美術館に展示され、同館の目玉の1つとなっている。
現在我々が目にする『モナ・リザ』は、描かれてから500年以上の間に、後世に塗られた保護用のワニスによって黄ばんでしまっているが、当初は画面全体が今よりも鮮やかな色彩であったという。


名画ゆえに、 1911年にはルーヴル美術館から盗まれた事も▲
写真は盗まれた『モナ・リザ』がかけられていた場所。

名画ゆえに、 1911年にはルーヴル美術館から盗まれた事も▲
写真は盗まれた『モナ・リザ』がかけられていた場所。
『モナ・リザ』のモデルが誰であったのかはわかっておらず、当初この絵は「ヴェールを被ったフィレンツェの娼婦」と呼ばれていそうだが、50年程後にダ・ヴィンチの生涯を『美術家列伝』に記した作家ジョルジョ・ヴァザーリが、この絵について『モナ・リザ』と記し、それが広まって今の名が定着したとされている。
「モナ(Mona)」は婦人の敬称「Madonna」の短縮で、「リザ(Lisa)」は「エリザベッタ」の愛称であり、ヴァザーリはこの女性が、フィレンツェの富豪、フランチェスコ・デル・ジョコンダの3番目の妻エリザベッタ・デル・ジョコンダであると記しており、イタリア語、フランス語での名称は、ジョコンダ婦人(La Gioconda)である。
美術史の研究者達の多くは、この肖像画のモデルは、その妻のジョコンダ婦人であると考えているが、 ダ・ヴィンチの残した大量のスケッチやメモには、 晩年まで離さず持ち続けていたにもかかわらず、肖像画についての記録は記されていないそうだ。


『モナ・リザ』のモデルがジョコンダ婦人だと考えられる証拠 ▲
写本の余白にアゴスティーノ・ヴェスプッチが記した書き込みがある。

『モナ・リザ』のモデルがジョコンダ婦人だと考えられる証拠 ▲
写本の余白にアゴスティーノ・ヴェスプッチが記した書き込みがある。
しかし2005年、ドイツのハイデルベルク大学図書館の専門家が、 大学の蔵書の余白部分に、1503年にフィレンツェの役人だったアゴスティーノ・ヴェスプッチによる 「ダ・ヴィンチがジョコンダ婦人の肖像画を制作している」という内容のラテン語の書き込みを発見し、 従来の説を裏付ける証拠の一つとなった。
デル・ジョコンダは裕福な人物であり、当時フィレンツェの中で政治的にも権威を持っていたそうだが、その妻である肝心のエリザベッタ、本名リザ・ゲラルディーニについては、1479年にトスカーナ州キャンティ地方のグレーベとカステッリーナの間にある農園の小さな貴族の家に生まれ、1495年に絹物商のデル・ジョコンダと結婚し、生まれて間もない子供の病死という不幸に見舞われた事意外は、殆ど何もわかっていない。
一説によると、エリザベッタは絵のモデルをした頃に子供を亡くしたばかりで、夫のジョコンダが道化師を雇って、妻を和ませたという。
その為、『モナ・リザ』は顔の左半分で微笑み、右半分では悲しみの表情を浮かべ、喪服と思わしき黒い衣装を着ていると言われている。
さらに、立体感を出す為に、あえて右手が左手に比べて大きく描かれたと思われる、組まれた手元が腹部をいたわるかの様な位置であり、左目横に米粒大の腫瘤がある事から、彼女は妊婦なのではないかとも言われている。
しかし、絵が描れた1503年当時、エリザベッタは24歳であるが、描かれている人物はもっと年齢が高く見えるし、また、デル・ジョコンダの妻と書き記したヴァザーリが、何故そう著書に書いたのかはっきりしていない為、ダ・ヴィンチの言った「貴婦人」かどうかは確証が無い。

まあ、サザエさんも24歳の割りに、もっと老けて見えますしね。


イザベラ・デステの肖像▲

イザベラ・デステの肖像▲
そもそも特定のモデルは存在せず、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの脳内にあった、理想の女性像を描いたものだという意見もある。
だが、肖像画のモデルと言われている人物は他にも候補がいてね、まずは、当時ジュリアーノ・デ・メディチの愛人であったナポリ公妃コスタンツァ・ダヴァロス。
彼女の名はダ・ヴィンチ自身の言葉から語られたものだが、1503年当時、彼女は45歳であり、描かれた姿が年齢的に合わない為、これは、単にダ・ヴィンチが嘘をついたのではないかと言われている。
次に、年齢が『モナ・リザ』と近く、同じ構図の油絵『アラゴンのイザベラの肖像』があるミラノ公妃イサベラ・ダラゴーナ。
この絵はスイスで個人が所有しており、詳細は不明であるが、容姿に微妙な異なりはあるものの、背景を含めてほぼそっくりの絵柄であるのだ。
次に、芸術の庇護者であり、モードの権威でもあったマントヴァ侯爵夫人イザベラ・デステ。
ダ・ヴィンチによる真作か贋作であるかの議論はありつつも、彼女が描かれたデッサン『イザベラ・デステの肖像』は、顔や体型や衣装が『モナ・リザ』と似ている。
以上の人物達が主に候補に挙げられてはいるが、いずれも確証は無い。

世界的な名画がまさかの2次元の嫁だったとしたら、 なんだか複雑な気持ちになりますね・・・。

シュワルツ博士によってダ・ヴィンチの自画像と合成された『モナ・リザ』▲

『モナ・リザ』とダ・ヴィンチの自画像との比較▲

『モナ・リザ』とダ・ヴィンチの自画像との比較▲
一方、ベル研究所のリリアン・シュワルツ博士は、『モナ・リザ』はダ・ヴィンチの自画像である、という見解を出している。
シュワルツ博士によれば、ダ・ヴィンチの自画像とされる絵と、『モナ・リザ』の顔の特徴をコンピューターで合成すると、顔の特徴がほぼ一致するのだという。
ダ・ヴィンチは男女両性の調和を理想として求めていたそうで、中世的な趣のある『モナ・リザ』のモデルが、彼自身の女装姿だったとしても不思議ではないのだ。
エジプトの豊穣の男神の名は「アモン」で、女神の名は「イシス」であるが、イシスは古い象形文字で「リザ」と呼ばれていたそうで、この2つの名を合わすと「AMON L'ISA(アモン・リザ)」となり、これを並べ替えると、「MONA LISA(モナ・リザ)」という、男女を融合させた名になるのだ。
しかし、同じ画家が描いた絵は、癖や好み等から特徴が似通ったものとなる事も多く、ダ・ヴィンチ自身の「全ての肖像画は画家自身の自画像に通じる」という言葉を裏付けた結果だとも見なせる。


『白貂を抱く貴婦人』、1490年頃、チャルトリスキ美術館▲

『白貂を抱く貴婦人』、1490年頃、チャルトリスキ美術館▲
さらに、ダ・ヴィンチは、肖像画の人物を示す物を作品内に描く事があり、例えば『白テンを抱く貴婦人』という作品では、ルドヴィコ・スフォルツァなる人物の愛人チェチリア・ガレラーニという16歳の女性を描いているが、白テンはルドヴィコ家の紋章の1つであり、チェチリアの姓は動物を表わすギリシャ語の「ガレン」と音が同じであるという洒落が施されているのだが、その事を『モナ・リザ』に当てはめてみると、彼女の衣服の胸元にある幾何学模様が「VINCI」と解読する事が出来るそうなのだ。
つまり、それはダ・ヴィンチが生まれたヴィンチ村の特産である細柳細工を意味する事から、『モナ・リザ』がダ・ヴィンチ本人だという事を示しているとも考えられるのである。

完全に一致ってやつじゃないですか・・・。
合成した顔が化け物みたいでヤバイですね・・・。


『モナ・リザ』の両端を繋ぎ合わせた画像▲

『モナ・リザ』の両端を繋ぎ合わせた画像▲
また、『モナ・リザ』の背景についても謎がある。
遠くには独特な形に尖った山があり、右側には湖が、そこから流れる川には橋がかかり、左側には曲がりくねった道が描かれ、優雅さと不思議さが漂う景観となっている。
実は、この背景は、ダ・ヴィンチが『モナ・リザ』を描き出す直前まで軍事技師として過ごしていた、イタリアのアレッツォ周辺の風景をあちこち組み合わせて描かれているという。
当時の肖像画として、こういった広大な景観の背景が描かれた事は珍しく、『モナ・リザ』は先駆的な作品の1つであり、この特徴は後の肖像画に受け継がれる事になった。
興味深い事に、この景観の地平線は平らではなく、画面右側が左側に対して明らかに高くなっているが、これは、一般的には山の上にある湖と見なされている。
しかし、これはダ・ヴィンチが意図的に仕掛けた細工で、左の風景を下げる事で、右側より左側から見た方が大きく感じられる様になっているのである。
昔から男女の概念はそれぞれ決まった位置と結びついており、左が女性、右が男性で、女性原理の信奉者であったダ・ヴィンチは、左側の『モナ・リザ』の方を立派に描いたという訳だ。
また、左側の川は道であるとの解釈もあるが、ダ・ヴィンチがその手記において、川や水についての考察やスケッチを数多く残している事から、川ではないかと推察される。
さらに、背景の右端と左端が、ぴったり風景として繋がるのである。
半分に切られた『モナ・リザ』は、右半身の方が左半身よりも小さく見え、1人の人物の左右がそれぞれ違う角度で描かれている様なのである。
これは、もはや1人の人物には見えず、左半身が男性、右半身が女性の如く、2人で1人の『モナ・リザ』が存在しているとも考えられるという。

じゃあ、モナ・リザってオカマだったんですね・・・。


ラファエロによる模写▲

ラファエロによる模写▲
『モナ・リザ』は1503年3月から1505年5月の間に、サンタ・マリア・ノベッラ教会の「法王の間」の回廊で描かれたと言われている。
フィレンツェ共和国から委託されたボルジア軍の監視スパイ役を終えたダ・ヴィンチは、ここに3年間暮らしたそうで、この時、22歳のラファエロが彼のアトリエを訪れ、制作中であった『モナ・リザ』を模写したと言われているデッサンがある。
確かに『モナ・リザ』との類似点が多く見受けられるが、『モナ・リザ』とは背景が全然異なり、両端に柱が描かれている。
この柱は、「法王の間」の回廊の柱だと言われている。
『モナ・リザ』の絵の両端には暗い陰が描かれているが、実はこれは当初、この部分には柱が描かれていて、ダ・ヴィンチが後に切り取ったとか、16世紀半ばに額縁に合わせる為に切り取られたとか、1911年の詩人アポリネールを巻き込んだ盗難の際に切り取られたとかいう噂があったのだが、1960年代の科学調査で切断の跡はない事が判明している。

模写の割りには、オリジナルより顔が少女漫画チックになってたり、背景が違ったりするのは何故なんです?ラファエロの趣味?

うむ、それについてなんだがね、君は2005年3月26日に日本テレビで放送された特番において、スイス・ジュネーブの地下金庫に保管されている、もう1枚の『モナ・リザ』が本邦初(テレビで)という形で公開されたのを知っているか?

ええっ!もう1枚の『モナ・リザ』!?
そんなナメック星のドラゴンボール的なもんがあるんですか!?
そーいや、『モナ・リザ』って眉毛が無くて、何処となくピッコロに似てるよーな気がしてたんですよねー。


アイルワース版『モナ・リザ』▲

アイルワース版『モナ・リザ』▲
眉毛が無いのは、元々は薄く描かれていたのだが、時の経過によって消失したとされている。
そんな事より、これがもう1枚の『モナ・リザ』だ。
通称アイルワース(またはローザンヌ)版『モナ・リザ』と呼ばれている。
『モナ・リザ』が複数枚存在するという説は、昔から語られていてね、確かに、全体の構図、女性の体型はルーヴル版の『モナ・リザ』と全く同じである。
だが、ルーヴル版に比べて顔は若くて小さく、色白であり、やや冷淡な印象を受ける。
また、ルーヴル版では背景は緑豊かな山々が描かれているが、このアイルワース版『モナ・リザ』は荒涼とした山々である。
X線と炭素測定による分析によれば、使われているキャンバスや絵の具は、ダ・ヴィンチの時代のものと一致したという。
という事はつまり、このもう1枚の『モナ・リザ』こそが、ダ・ヴィンチが当初依頼された「ジョコンダ婦人の肖像画」であり、ラファエロが模写したものである可能性が高いのだ。
この事から、ダ・ヴィンチはラファエロが訪ねた時は、まだ肖像画として『モナ・リザ(アイルワース版)』を描いていたが、いつしか心に何らかの変化があり、彼の中にある、心象としての『モナ・リザ(ルーヴル版)』が描かれたという説が考えられるのだ。
だが、一説によると、このアイルワース版『モナ・リザ』は、1962年にロンドンのヘンリー・F・ピュリッツァーという人物が、鑑識家ヒュー・ブレーカー氏秘蔵の作品を絵画シンジケートと共同で手にいれたものであるという。
また、日本テレビの特番放送終了後、東北大学大学院の田中英道教授(西洋美術史)が、「この1点は、1980年代半ばにスイスの画商が売りに出そうとしたコピーであると、学会でほぼ結論付けられている」として、同局に抗議文を送ったそうである。
結局の所、このもう1枚の『モナ・リザ』がダ・ヴィンチの手によるものであるという、確たる証拠は無い。

へえ~、なんかルーヴル版よりこっちの方が綺麗ですねえ。
体調の悪い仲間由紀恵って感じ。


【『最後の晩餐』の謎】

『最後の晩餐』▲
ミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描かれた。

『最後の晩餐』は、ダ・ヴィンチが、彼のパトロンであったドメニコ教会のロドヴィコ・スフォルツァ公の要望で描いた絵画である。
これは、イエス・キリストが磔刑の前夜に、12使徒と共にした晩餐の様子が描かれており、『ヨハネによる福音書』13章21節の、キリストが12人の弟子の中の1人、ユダの裏切りを指摘すると共に、パンとブドウ酒をとって「自らの体であり血である」と言う場面である。
絵は、イタリア・ミラノにあるサンタ・マリア・デル・グラツィエ修道院の壁画として描かれたもので、420 x 910 cmの巨大なものである。
1980年に世界遺産に指定され、世界中から多くの観光客が同地を訪れている。
ダ・ヴィンチは、1495年から1498年までの3年間で絵を完成させており、殆どの作品が未完と言われる彼の作品の中で、数少ない完成品の1つであり、また、遅筆の彼にしては異常に速いペースで作業を行ったと言えるであろう。
第2次世界大戦中は、爆撃によって修道院がほぼ全壊したそうだが、奇跡的に壁の絵は損傷を免れた。
しかし、その後3年間屋根の無いまま風雨にさらされていた為、結局激しい損傷を負ってしまい、1977年から1999年まで大規模な修復作業が行われた。

打ち上げの飲み会の様子じゃないんですネ。

絵画は当時食堂だった部屋の壁面の、床から2m程上に描かれており、一点透視図法を用いて部屋の様子が立体的に表現され、ある位置から見ると、絵画の天井の線と実際の壁と天井との境目がつながり、部屋が壁の奥へと広がって見える様になっている。
絵の下端に床の淵の様なものが描かれている事から、最後の晩餐を演じた舞台の様子として描いているとも言われる。
また、一点透視図法の中心点はキリストのこめかみの位置にあり、洗浄作業によってこの位置に釘を打った跡が見つかった事から、ここに釘を打ち、糸を張って描いたと考えられている。
12人の弟子はキリストを中心に3人1組で描かれ、4つのグループがほぼ等しい幅を持つ様に左右に等しく配置されており、遠近法、背景、弟子の表情、手の動き、目線、配色、構図等、あらゆる点で中央のキリストに注目が集まる様に工夫がなされているのだ。
また、この時代までの最後の晩餐の絵画は、聖人には必ず後光が射されていて、裏切り者のユダは後光が無かったり、横長のテーブルに1人だけ手前側に座る等の構図で、明らかに区別されて描かれていたそうなんだがね、ダ・ヴィンチは12人の弟子を皆テーブルに等しく配置し、後光も描かなかったのだ。
その代わりに、キリストの背後には明るい外部の景色を描き、ユダの手には銀貨を入れた袋を持たせ、顔に陰をいれる事で区別が計られている。

へえ、いろいろ考えてあるんですねェ。

ところで、キリストの12人の弟子は全員男性とされているのだが、君はこの絵に何か違和感を感じないかね?

違和感?
・・・・・えーと、ドアや窓が無くて、蚊とかゴキブリが入り放題な辺りですかね。


ヨハネが女体化?▲

ヨハネが女体化?▲
そんな事は気にしなくていい。
注目してもらいたいのは、キリストの向って左側にいる人物だ。
普通、キリストの左横にいるのは、弟子のヨハネであるとされているんだがね、よく見てみたまえ。
ゆるやかに垂れた赤い髪、華奢な体形、胸の膨らみが何となく確認出来ないか?
『ダ・ヴィンチ・コード』によれば、『最後の晩餐』は、13人の男性の絵であるという強烈な先入観の所為で見逃しがちだが、実は、その姿は明らかに女性であるというのだよ。
これは、男女の描き分けに長けていたダ・ヴィンチがしくじるはずもなく、意図的に描かれたものだ。

えっ、じゃあ、ヨハネは女性だったんですか?

そーじゃない。この人物はヨハネではなく、別人であるという事だよ。

でも、ヨハネじゃなかったら誰なんですか、この人は。近所の住人?


誰が何と言おうが「M」だ▲

誰が何と言おうが「M」だ▲
絵の構図の中心となるのは、キリストとこの女性であるが、腰の位置は密接しているのに、上体はお互い避けるかの様に離れ、大きく翼を拡げた「M」の字を2人で作っているのである。
『ダ・ヴィンチ・コード』によれば、この「M」は、キリストの隣りにいる女性が、マグダラのマリアであるという事を表しているというのだ。
しかも、それと同時に「マトリモニオ(結婚)」をも意味し、マグダラのマリアは、キリストの妻、または親密な関係の女性であったというのだ。
マグダラのマリアは、キリストと12使徒と共に旅をし、キリストが十字架に磔られ処刑された時も、その場に立ち会ったとされ、また、復活したキリストが最初に姿を現したのは、彼の墓を訪れていた彼女であったとされ、重要な場面には必ず彼女が登場している。
新約聖書のどの福音書にも、2人の男女の関係を示す様な記述は出てこないが、グノーシス派の福音書では、マグダラのマリアは12使徒よりも遥かにキリストに近く、その奥義を授かった女性とされているという。
また、『ピリポ福音書』には、マグダラのマリアを「妻」と連想させる様な単語で記してあり、キリストがしばしば彼女とキスを交わした、12使徒は嫉妬に苛立ち、不快の意を表したと書かれているという。まあ、ヴァチカンはそれらの文書の内容を否定しているがね。
また、当時のユダヤ人社会の習慣で、独身である事は非難された為、20代のキリストが結婚していなかった事は考えられないという。

へえ~、そーなんだ。でも、そーなるとヨハネは何処に?

つまり、ダ・ヴィンチ的には、この人物は本来の意味ではマグダラのマリアとして描いたが、表面的には一応ヨハネ、という事にしていたのであろう。
何故ならば、当時は教会の信仰に背く考えは異端とされ、弾圧されたからね。
教会が否定しているキリストとマグダラのマリアの男女の関係を指し示す様な絵をそのまま描く訳にもいかず、仕方なく、こっそり表現したという事だ。
そうそう、君は男女を表すのに、現在使われている記号を知っているかね?

ええ、♂と♀ってのですよね。

実はそれらの記号は、男女を表す象徴の原型ではないのだよ。
男性の象徴は盾と矛、女性の象徴は美を映す鏡に由来していると多くの人が誤解しているが、本来は、男神の名である火星(マース)と女神の名である金星(ヴィーナス)を表す古代文字に端を発しているそうなのだよ。
この元々使われていた記号はずっと単純なものでね、「」が当初の男性を表す記号だ。
正式には剣の形として知られているが、実は簡略化した男根である。
そして、女性の記号はこれと逆のもので、「V」である。
これは子宮の形を現しており、「杯」と呼ばれている。そう、ここで出てくるのが、聖杯だ。
伝説によれば、聖杯とはキリストが最後の晩餐の際に用いたという、文字通りただの器とされているんだがね、この絵にはまとまった量のワインが入ったグラス、即ち、聖杯が見当たらないだよ。実はこれは、それにまつわる重要な秘密を守る為の比喩であるという。

重要な秘密?

「杯」は女性らしさを表す古代の記号だから、聖杯とは聖なる女性や女神の象徴なのだよ。
だがこれは、男性の支配する教会が勢力を伸ばすにあたって脅威であった為に、事実は歪められ、むしろ聖なる女性は邪悪で不浄のものであると見なされる様になったのだ。
失われた聖杯を探す騎士達の伝説は、実は、失われた聖なる女性を追い求めるという事で、聖杯という隠語を用いる事で、教会の弾圧から身を守っていたという。
そして、その失われた聖なる女性こそが、マグダラのマリアであるというのだ。
彼女は長い間、娼婦であった解釈されてきたが、それは初期の教会による組織的中傷の名残であり、それは彼女の「聖杯としての役割」という教会にとって危険な秘密を闇に葬る為であったという。

役割って?


キリストとマグダラのマリアの間に妙な空間が▲

キリストとマグダラのマリアの間に妙な空間が▲
かつての教会は、もともと人間の預言者であったキリストを、神であると納得させなければならず、故に彼にまつわる世俗的な面を記した福音書は、すべて聖書から外したのだ。
もちろん、特に先述のキリストとマグダラのマリアが親密な関係であったという事もね。
だが、ダ・ヴィンチはその事実を知っていて、『最後の晩餐』に暗にそれを表現したというのだ。
例えば、キリストとマグダラのマリアは赤と青の対照的な衣装をしており、これは陰と陽を示し、青は精神的な愛や、貞節、真実を象徴し、赤と青は王室の色で、つまりマグダラのマリアの家系であるベニヤミン家と、キリストの家系とされるダヴィデ家との、王家の血筋の融合をほのめかしていると考えられるという。
また、キリストとマグダラのマリアの間には、妙な空間を作られている。
ダ・ヴィンチ以前に描かれた『最後の晩餐』では、どれもキリストの左側にいる人物(ヨハネ)は、キリストに身を寄せているにもかかわらず。つまり、この空間は、ある事を表しているのだ。

・・・あっ、この空間、さては倦怠期なんじゃないですか!?


おや、間に何かいるぞ▲

おや、間に何かいるぞ▲
そーいう事じゃないってば!
どう見ても「V」の形だろ!
この空間は聖杯=子宮を意味しており、キリストとマグダラのマリアの間には子供が出来ていたという事を表しているというのだ。
この説を唱える研究者のフリオ・ナポリタニ氏によれば、このマグダラのマリアとキリストのV字型の空間には、元々はダ・ヴィンチが描いた子供らしき姿が描かれていたそうなのだよ。
そのV字型空間を拡大し、デジタル処理した画像がコレだ。
キリストとマグダラのマリアの間に、人物のアウトラインの様なものが見えないかね?
その人物は小さく子供の様で、服を着ており、頭と胸部、それに両腕みたいのが確認出来る。
また、その人物はキリストの方を向いて立っており、犬の様な耳や髭らしきものも見える。
つまり、これらの事から、ダ・ヴィンチは、絵の中にキリストとマグダラのマリアの間に生まれた子供を描いたが、途中でそれを消し、キリストとマグダラのマリアの間にV字型の空間を残す事で、暗に彼らの間に生まれた子供(血脈=聖杯)の存在を示したと考えられるのだ。
さらに、聖杯を示す「サン・グリアル(Sangreal)」は、"王家の血"を意味する「サング・リアル」が語源だという。

たしかに間に何かいますね。化け物みたいのが。


「俺の酒が飲めねえってのかよ?」風のペテロ▲

「俺の酒が飲めねえってのかよ?」風のペテロ▲
また、『ダ・ヴィンチ・コード』では、キリストに教会の将来を託され、誰よりも親しい間柄であったマグダラのマリアへの嫉妬や対抗心から、ペテロの左手がマグダラのマリアの首を掻き切ろうとしていると解釈しているが、これは人差し指がキリストに向けられており、他の指が下に向けられている事から、このポーズでは首を掻き切る事は出来ないと思われる。
また、マグダラのマリアの左側にいるユダの背中にナイフを持った手が見えるが、この手は12人の弟子の誰の手でもないという説がある。
しかし、ダ・ヴィンチは「両性具有」を理想としていたとも言われ、先述のヨハネ(マグダラのマリア)や『モナ・リザ』の様に、中性的な人物を描く事があったそうだが、そのナイフを持った手の大きさや形状から、やはり男性のものであり、多少不自然な格好ではあるものの、ペテロの右手であると思われる。

ペテロの手首の骨、折れてたんじゃないですか?

さて、カトリックでは、キリストの死後、マグダラのマリアは小アジアのエフェソスに移り住み、そこで死んだ事になっている。
が、『ダ・ヴィンチ・コード』では、当時ガリアと呼ばれていたフランスへ密かに渡り、ユダヤ人社会にかくまわれ、そこで、「サラ」という名の娘を出産したとしている。
また、ユダヤ人がキリストとマグダラのマリアに始まる「イエス・キリストの家系図」を残しており、さらに、シオン修道会というのは、マグダラのマリアの墓と、その血縁に連なる者(つまりキリストの子孫)を守る為に作られた修道会であると語られているのだ。
そして、その創設者であるゴドブロワは、第1回十字軍の指揮をとり、テンプル騎士団にソロモン神殿の廃墟から秘密文書を発掘する様に命じた男であるそうだが、彼こそが、フランク王国を建国したメロヴィング朝の末裔であるとされ、「サラ」の血縁はそのメロヴィング朝に連なるというのである。

本当にキリストの子孫がこっそり生きてたら面白いですね。


【『岩窟の聖母』の謎】

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『岩窟の聖母』ルーヴル美術館版とロンドン・ナショナル・ギャラリー版▲

奇妙な事に、ダ・ヴィンチは『岩窟の聖母』なる絵画を2点描いている。
左側がルーヴル美術館、右側がロンドン・ナショナル・ギャラリーに展示されている作品だ。
何故、完成品が数少ないダ・ヴィンチが、同じ絵を2点も描いたのか?
『岩窟の聖母』は、ダ・ヴィンチがミラノ滞在中の1483年4月25日に、無原罪の御宿り信心会にサン・フランチェスコ・グランデ聖堂の祭壇を飾る三連画の中央部分として依頼されたものである。
『岩窟の聖母』は原罪(性交)を犯さずにイエスを宿した聖母マリアの姿「無原罪の御宿り」が主題と考えられ、ヘロデ王が2歳以下の嬰児を虐殺する為に放った兵士から逃れるべく、エジプトへの逃避中、砂漠の洞窟に身を隠したヨセフとマリアと幼子イエスが、大天使ウリエルに守られた幼い洗礼者ヨハネに出会う場面を描いたとされている。
元々依頼されて描かれたルーヴル美術館版は、画面全てがダ・ヴィンチの真筆とされ、本来はサン・フランチェスコ・グランデ聖堂の祭壇を飾る作品であったが、1485年に完成したこの絵の構成が、黄金の葉が散りばめられ、智天使(ケルビム)が宙を舞い、旧約聖書の預言者達の霊が間を埋めるという、当時の流行りであった豪華な出来栄えを所望した信心会側の意図に大きく反しており、また、制作が遅れた事もあり、信心会が支払いを渋り、評価額25ドゥカーティに対し、ダ・ヴィンチは100ドゥカーティを要求した為、その後、長期的に支払金を巡る訴訟が両者の間で続き、契約から25年後の1508年10月になって、ようやく金銭の支払いがなされ、この作品は結局、それを仲裁したフランス王ルイ12世に献上され、現在パリのルーヴル美術館に展示されている。
そして、そのオリジナル版を安売りしたくなかったダ・ヴィンチは、しぶしぶ依頼主の意図に沿ったコピーをもう1枚描き(弟子のデ・プレディス兄弟に描かせたとされる)、それを最終的に信心会に渡したのである。
そのコピーの絵が、現在ロンドン・ナショナル・ギャラリーに展示されている方だ。

ずいぶん手間のかかった間違い探しですネ。


確かに、その感想は稚拙だが、的を得ているとも言えよう。
まずは、ルーヴル美術館版の方から見てみよう。
岩に囲まれた洞窟は、生命の誕生を司る母の胎内を暗示していると思われ、中央に聖母マリア、その左に洗礼者ヨハネ、右に祝福を与える幼子イエスと大天使ウリエルが配置されているが、神格の象徴である光臨が描かれておらず、また、聖家族のエジプト逃避の場面であるにもかかわらず、ヨセフの姿が無い。
さらに、通常ならば、洗礼者ヨハネはアトリビュートである獣の衣や十字の杖等が描かれ、幼子イエスと明確に区別が図られるが、それが無い点から、祭壇画としての役割が果たせない事もあり、依頼主の信心会に受け取りを渋られたのである。
聖母マリアが幼子イエスと洗礼者ヨハネを、大きく手を広げて祝福しているが、この2人の幼児がどっちがどっちであるかについては諸説あり、『ダ・ヴィンチ・コード』においては、向かって左をイエス、右をヨハネとしており、2人の幼児が似ているのは、ダ・ヴィンチが意図的に両者が誰であるのかぼかしたものと考えられるという。


『岩窟の聖母』ルーヴル美術館版とロンドン・ナショナル・ギャラリー版▲

そして、マリアは通説でヨハネとされる幼子を右手でかばう様に優しく抱く一方、イエスの頭上には、まるで鷲の鉤爪の如く、威嚇の姿勢を示している様に片手をかざしている。
また、大天使ウリエルは、マリアに抱かれた幼子を人差し指で差し、マリアの鉤爪につかまれた目に見えぬ頭部を、喉元あたりで掻き切る仕草をしつつ、意味あり気な視線を鑑賞者に向けている。
ここで『ダ・ヴィンチ・コード』でも唱えられた説として、大天使ウリエルが洗礼者ヨハネの守護天使である事から、洗礼者ヨハネがイエスを祝福しているという、通説と逆の解釈をしてみたらどうだろう。
マリアと一緒にいるのがイエスで、ウリエルと一緒にいるのがヨハネとすると、ヨハネがイエスに祝福を与え、イエスはそれを拝受している事になる。
また、マリアは我が子を守りながら、片手を幼子ヨハネの頭上に掲げ、その手の下にはウリエルの手が横切っているという、これらの仕草は、幼子の1人が首を斬られて死ぬ事を暗示しているとすれば、その見えない頭が真上に位置している事からも、ウリエルと一緒にいるのは、やはりヨハネであると考えられるという。
そして、この解釈だと、洗礼者ヨハネが、祝福を与える者として、イエスよりも上位に描かれた事になるのだ。

もう誰が誰だか分からないんですが。


まあ、聞きたまえ。
ここで、ロンドン・ナショナル・ギャラリー版に目を向けてみよう。
先に描かれたルーヴル美術館版とは違い、異端的な要素が全て排除され、光臨があり、2人の幼子は明確に区別され、左の幼子に葦の十字架と羊の衣が描かれている為、明らかに洗礼者ヨハネとなっている。
しかし、この葦の十字架と羊の衣は、イエスとヨハネ両者の混同を避ける為に、後になって植物のエスキース(下絵)から類推して、描き加えられたものだと言われている。
また、マリアの左手は幼子の頭上に掲げられているが、威嚇の様子は無いし、ウリエルも指を差しておらず、目もそらしていない。
これは、依頼主の信心会の怒りを静める為に、ダ・ヴィンチが型通りに描いた手抜きの『岩窟の聖母』なのである。
その一方で、ルーヴル美術館版の『岩窟の聖母』は、巧みに象徴を用いて、過剰なまでに挑発的なメッセージを、暗号として示していると考えられるのだ。
それ即ち、洗礼者ヨハネがイエスよりも上位にあるという事を。
神への冒涜と取られるその思想は、直接的に表現すれば教会に弾圧されるから、こっそり作品内にその意味を隠したという訳だ。

どっちが上位だっていいと思うんですが、オトナって色々めんどくさいんですネ。


悪魔教のシンボルとなっているバフォメット▲ 黒ミサを司る山羊の頭を持った悪魔で、 19世紀にフランスの魔術師エリファス・レヴィが描いたこの絵が有名。
テンプル騎士団が1307年にフィリップ4世により偶像崇拝の糾弾を受けた際、 このバフォメットの偶像を奉っていたとされている。

悪魔教のシンボルとなっているバフォメット▲
黒ミサを司る山羊の頭を持った悪魔で、 19世紀にフランスの魔術師エリファス・レヴィが描いたこの絵が有名。
テンプル騎士団が1307年にフィリップ4世により偶像崇拝の糾弾を受けた際、 このバフォメットの偶像を奉っていたとされている。
そもそもダ・ヴィンチは、キリスト教信仰の主流とは対極をなす、神秘思想に傾倒していたそうで、その生き方と信条には、儀式や魔術といったものの影響が見られる。
「オカルト」とは"隠された"という意味であるが、当時のヨーロッパは、教会が科学実験を許さず、その探求の対象は文字通り隠され、伝統に反した独自の見解を示す者を異端とし、激しく押さえつけていたのである。
だが、ダ・ヴィンチが生まれ育ったフィレンツェはそうではなく、新しい知識が集まるこの地では、魔術師や秘術師といったオカルティストの避難場所で、また、当時フィレンツェの統治者であり、ダ・ヴィンチの最初のパトロンとなったメディチ家が、オカルト研究を積極的に奨励し、資金援助を行ったりしていたそうだ。
さて、ダ・ヴィンチは、フィレンツェにいた時代、自分で題材を決められる場合は、進んでヨハネを選んでいたという。
そればかりか、伝統的な宗教画を描く際も、ヨハネの存在を際立たせていたという。
洗礼者であり、イエスの血縁者でもあるヨハネはもともと重要な人物であるが、ダ・ヴィンチは他者とは異なり、ヨハネをイエスよりも上位の存在であると見なし、祝福を与えるのは、イエスではなく、ヨハネであると大天使ウリエルに訴えさせたと考えられるのだ。
まるで、まっすぐ伸びた右手の人差し指が、そう脅しつけているかの様に。
つまり、ダ・ヴィンチはこの作品で、無言の反キリスト運動を行ったのではないかと推察出来る訳だ。

結構ちゃっかりボーイだったんですね、ダ・ヴィンチって。


ところで、この『岩窟の聖母』には、従来のものとは異なり、最近になって唱えられたある解釈の一例がある。
あくまで単なる仮説に過ぎず、妄想とも受け取られる様ではあるが、この様な解釈も面白いので、細かい事は気にせず紹介しよう。
『岩窟の聖母』の原題である「The Virigin of the Rocks」の「Rocks(岩)」とは、俗語で「睾丸」を意味するが、そう考えると、聖家族の後方に岩がある理由が別物になってくるのだという。
つまり、聖母マリアの頭のすぐ脇には堂々とした睾丸があり、そこから絵画の上部にまで、男根が聳え立っているのだ。
だまし絵の様に岩の塊に紛れ込ませてあるが、見分けがつくし、しかも一番上には、しぶき状の雑草まで生えている。
これは見る人の思い込みの強さにもよるが、特にロンドン・ナショナル・ギャラリー版でそれを伺えられる。
ダ・ヴィンチがわざわざこの男性器を描いたのは、絵の依頼主であった無原罪の御宿り信心会への腹いせであり、聖母マリアが処女ではないと訴えていると考えられるという。ほら、目を凝らしてよく見てみたまえ。
君にも見えてこないかね?
想像を絶する巨大ペニスが。そう、巨大ぺ(以下略)

乙女に何説いてんだコラ。セクハラですよ。


【レンヌ・ル・シャトーの謎】


ベランジェ・ソニエール▲

ベランジェ・ソニエール▲
1885年6月1日、フランス南部ピレネー山麓にある住民200人程の小さな村レンヌ・ル・シャトーに、ベランジェ・ソニエールという名の、端正な顔立ちをした33歳の新しい教区司祭が赴任してきた。
ソニエールは、頑丈で精力的な雰囲気があり、非常に知的な印象を与える人物で、僻村の司祭より、もっと重要なポジションが相応しくも思えるが、彼は何らかの理由で昇進の道を断たれ、この教区に追いやられたと推察される。
赴任してから6年間、ソニエールは穏やかな生活を送り、彼は熱心な読書家で、ラテン語に精通しギリシア語も分かり、ヘブライ語の勉強も始めていたという。
また、家政婦兼召使いとして、マリー・デナルノーという18歳の農家の少女を雇い、その後、彼女はソニエールの生涯の友となった。


羊皮紙が入っていた石柱▲

羊皮紙が入っていた石柱▲
1891年、ソニエールは、1059年に建てられた村の荒れ果てた教会(マグダラのマリア教会)の修復に取り掛かっていた際、祭壇石を持ち上げてみたところ、その下から土に埋められた古い西ゴート風の2本の円柱を見つけた。
調べてみると、その円柱の1本は中が空洞になっており、そこから木製の円筒に入れられた4枚の羊皮紙が出てきたのである。
このうち2枚は土地の檀家の家系図で、あとの2枚はラテン語で新約聖書の抜粋が書かれていた。
しかし、一方の紙は、行がまったく不規則で、単語は途中で切られ、また、一部の文字は他の文字よりも異様に持ち上げて書かれ、もう一方の紙は、単語の間に隙間が無く、でたらめに引っ付き、まったく余分な文字があちこちに書かれていたのだ。
もしかしたら暗号かもしれないとピンときたソニエールは、試行錯誤の末、それを解いたのである。
ぎっしりと隙間無く並んだ文字の中に、所々に上に少しずれた個所があり、それらを繋げると、次の様な文になったという。
「A Dagobert Ⅱroi et aSion est ce tresor et il est la mort(この宝物は、王ダゴベール2世とシオンに属する。その人はここで死ぬ)」と。

え、一体誰がおっ死んだんですって?


ニコラ・プッサン作『アルカディアの牧童』▲

ニコラ・プッサン作『アルカディアの牧童』▲
ダゴベールとは、7世紀のメロヴィング朝のフランス王の事である。
これら羊皮紙は、字体や紙の古さから、1780年代の、ソニエールの前任者であったアントワーヌ・ビグー神父が書いたと察せられた。
興味を持ったソニエールは、重要な物を発見したとして、村長の同意を得てから上司であるカルソンヌのビヤール司教にこれを見せ、司教も大いに興味をそそられ、暗号の専門家に相談してみる事を彼に薦めた。
そして、ソニエールはパリに行き、シュルピス会の代表者ビエイユ神父と、その甥で言語学を学んだエミール・オッフェという見習い神父に紹介され、詩人マラルメ、劇作家メーテルリンク、作曲家ドビュッシー等の著名な人物に会い、いずれかの者に助言を受けたと思われる。
その後、ソニエールはルーヴル美術館に行き、3枚の複製画を買った。
その中の1枚は16世紀のフランスの風景画家、ニコラス・プッサン作の『Les Bergers d' Arcadie(アルカディアの牧童)』であり、その絵の中には、3人の羊飼いが墓石の横に立っており、その墓石には『Et in Arcadia Ego(我<死>はアルカディアにもあり)』と訳される語句が刻まれていた。
こうして3週間後にレンヌ・ル・シャトーに戻ったソニエールは、教会の修復を再開し、人夫達に手伝わせて、祭壇前の床にはめ込まれた石の板を持ち上げた。
すると、板の裏には、ダゴベール王の時代のものと思われる、馬に乗った騎士の姿の彫刻が彫られていたのだ。そこを掘り進むと、さらに2体の骸骨と1個の壷が見つかった。
その後、ソニエールは人夫達を帰した後、厳重に鍵をかけた部屋の中に一晩中閉じこもったという。

何で急に閉じこもったんでしょう?
壷にエロ本でも隠してたのかしら。


ブランシュフォール侯妃の墓に刻まれた文字▲

ブランシュフォール侯妃の墓に刻まれた文字▲
隠すならもっと取り出しやすい所に隠すだろ!
あ、いや、これはあくまで一般的な見解であり、私個人の経験に基づくものでは(以下略)
その後のソニエールの行動は奇妙なものだった。
数日後、ソニエールはマリーを連れて、教会の近くを歩き周り始めたのである。
そして背中に袋を担いで出かけ、夕方になると袋に石を詰め込んで帰ってくるのだ。
それらの石を使い、彼は教会の庭に岩屋を作り始めたそうだ。
どうやらソニエールは、教会の境内にあるブランシュフォール侯妃の墓に目をつけていたらしく、この墓の頭石は前任者のビグー神父が作ったものらしいが、そこに刻まれていた刻銘文字が肝だったのである。
まず、両側の縦の文字は、ギリシャ文字とローマ文字混じりで、『Et in Arcadia Ego』と読める。つまり、前途のプッサンの絵と何か関係があるという事だ。
そして、中央の文字、『Reddis Regis Cellis Arcis(王の土地レディスで、砦の洞窟の中)』と読める。「Reddis」というのは、レンヌ・ル・シャトーの古名の1つである。
また、頭石の文字には8つの変則個所があり、例えば綴りが違ったり、単語内の一語が小文字になっていたり、頭文字が本来あるべき行の最初ではなく、その1つ上の行の最後にあったりするのだ。
それらの変則個所を大文字だけで集めると『TMRO』となり、小文字だけで集めると『eeep』となった。
そして、大文字の方をアナグラムしてみると、『MORT』と置き換えられ、「死」という意味になり、小文字の方は『epee』と置き換えられ、「剣」という意味になるのだ。

その2つの言葉が羊皮紙の謎を解く為のキーワードなんですね。
それにしても、ソニエール神父は自力でこんなの解読しちゃうなんて凄いですねえ。


羊皮紙が入っていた石柱の前に立つソニエール神父▲

羊皮紙が入っていた石柱の前に立つソニエール神父▲
うむ、誰かに解読に関する重要な助言を与えられたとも考えられるが、そこら辺はよく分かってはいない。
確かなのは、この一件の直後に、ソニエールが大金持ちになったらしいのだ。
そして彼は、羊皮紙に関する文字が刻まれていたとされる墓の文字を消し、様々な銀行と取引を始め、フランス、ドイツ、スイス、オーストリアといった不特定多数の相手と手紙のやりとりを行いだしたという。
また、村へ通じる泥道を舗装したり、水道管も敷き、さらに洒落た別荘を建て、庭には噴水や並木の散歩道をこしらえ、珍しい陶器や織物も集めだし、蔵書のコレクションを収容する為のゴシック風の塔を建てたりしたというのだ。
また、当時のヨーロッパの王族や政治家や文化人等を次々にこの村に招待し始めたという。
その中には、オーストリア皇帝ヨーゼフの従兄弟ヨハン・ハプスブルグ大公なる人物もいた。
当然、急に羽振りが良くなったソニエールに教会当局は疑念を抱き、彼を詰問したが、彼はそれに対し、「実はこれはある富豪による献金なのですが、その人の名は決して口外しない様に言われているのです」と答えたそうで、いくら聞いてもそれ以上話そうとしなかった。
仕方なく教会当局は、教区の配置換えを命じるも、ソニエールは断固これを拒否し、新しい神父が村にやってはきたが、村人達もそれを無視して、事ある度にソニエールに依頼していたという。
また、後の裁判で彼は有罪を宣告されたにも拘わらず、バチカンに訴えて無罪を勝ち取ったのだ。


1907年当時のレンヌ・ル・シャトー▲

1907年当時のレンヌ・ル・シャトー▲
こうして、第1次世界大戦中の1917年1月17日、それまで湯水の様に大金を浪費していたソニエールは脳卒中で倒れ、同月22日に享年64歳の人生を終えた。
ところで、彼の死の床に呼ばれた隣の教区の神父は、彼の告白を聞いた後、恐ろしさのあまり、祈りもせずに、部屋から真っ青になってガタガタ震えながら出てきたそうだ。
土地の記録では、それ以後この神父は永遠に笑顔を失ったという。
その神父がソニエールから聞いた告白が一体何だったのかは、もはや知る由も無いが、村人達は、それがキリストの聖杯に関する事だと信じているという。

単に「ずっと前から君にゾッコンLOVEだった」とでも神父に告げたんじゃないですか?

なるほど、確かにそれなら真っ青になってガタガタ震えもするかもしれんな・・・

って、そんな訳あるかっ!

一方、ソニエールに使えていたマリーは、彼の死後、財産を委譲され、急に羽振りが良くなったそうだ。
第2次世界大戦後、フランス政府は新通貨を発行し、税金逃れを摘発する為に、大きな財産については出所の報告を義務付けたが、するとマリーは、庭に札束を山の様に積み上げて燃やし、その後は、ソニエールの別荘を売った金で悠々自適に暮らしたそうだ。
しかし彼女は、1953年にこの世を去るまでその財産の出所を決して誰にも明かさなかったという。

私にも誰か財産を委譲してくれないですかね~。

レンヌ・ル・シャトー(Rennes-le-Chateau)全景▲

レンヌ・ル・シャトーの地に立つ ヘンリー・リンカーン▲

レンヌ・ル・シャトーの地に立つ ヘンリー・リンカーン▲
そして、現代になって、この話に関心を抱いた歴史研究家のヘンリー・リンカーンは、レンヌ・ル・シャトーを何度も訪れ、やがてBBCで『エルサレムの秘宝…?』というテレビ番組を制作した。
リンカーンは暗号専門家が20進法と呼ぶ技法を用いて、羊皮紙文書の解読に成功したと主張している。
その方法で彼が解読した文書は「誘惑のない女羊飼い、プッサンとテニエがその十字架つき鍵平和681を持つ、そしてこの神の馬、私は真昼にこの守護の悪魔に到達する、青いリンゴ」という、実に訳の分からないメッセージになるという。
こんなものを、暗号について素人であったはずのソニエールが如何にして解読したかについて、リンカーンは秘密文書の内容の一部を既に知っていた、ある組織が存在していたのではないかと推定している。
その組織とは、中世のピレネー山中に存在した血盟騎士団「シオン修道会(Priory of Sion)」であるというのだ。ここで、ソニエールが筒の中で発見した2通の文書を思い出して欲しい。
短い方の文書は、「P-S」という文字で終わっている。
これは明らかに、「Priory of Sion」の頭文字なのだ。
また、長い方の文書には、「NO-IS」の署名があるが、これも逆に読めば「SION」になる。
このシオン修道会には、1975年に、パリのフランス国立図書館で「秘密文書(ドシエ・スクレ)」として知られる史料が発見された事によって、多数の歴史的に著名な人物達が加わっていたとされており、その中に、ソニエールがパリで会った音楽家のドビュッシーもいる事から、彼に暗号解読の鍵を受け取ったとも考えられる。

ところで、そもそもシオン修道会って何なんですか?
古の進学塾みたいなもんですか?

一説によると、それはテンプル騎士団の内部組織であるとされている。
1312年にフランス王フィリップ4世によってテンプル騎士団は壊滅させられたのだが、実は彼らの最大の拠点の一つであった「ベズ」にある財宝を押収される事だけは逃れた様で、このベズという土地は、レンヌ・ル・シャトーの近くの事を示すらしいのである。
また、テンプル騎士団の本部であったソロモン神殿はエルサレム郊外のシオン山にあったそうで、文書ではエルサレムを単にシオンと称する事も多く、シオン修道会はテンプル騎士団の母体の秘密組織であり、騎士団が壊滅してからも母体の方は温存されたのだという。

そんなしぶとく頑張るだなんて、一体彼らは何を目的としていたんですかね?

リンカーンによれば、シオン修道会の最終目的は、メロヴィング朝をフランス王位に復活させる事だったそうだ。
メロヴィング朝は、6世紀の初めに樹立した王朝で、後にダゴベール2世が王に即位したのだが、彼は679年に重臣の一人であったピピン2世に暗殺され、その重臣の系統がカロリング朝と称してフランス王位についた。つまり、国の横取りである。
この時、ダゴベール2世の息子のシジスベールは南部のラングドックまで逃げ延び、叔父から「Razes(ラゼ)」公と「Rhedae(レーデ)」伯の称号を得たらしい。
レーデはレンヌ・ル・シャトーのもう一つの古名で、ラゼはレンヌがある都の名前である。

でも、どうしてメロヴィンガ王朝とかいうのを、フランスの王位に復活させなきゃならなかったんです?
それに、ソニエール神父が発見した宝物とは何の関係が?

プッサンの絵のモデルとされる石棺▲

シャグバラ・ホールの鏡像▲

シャグバラ・ホールの鏡像▲
まあ、聞きたまえ。
徐々に明かしていくから。
その後リンカーンは、レンヌ・ル・シャトーから数キロにある、アルクの城の近くで、プッサンの絵のものと思われる石棺の墓を発見した。
確かにに描かれているものと瓜二つである。
さらに調査を進めた彼は、イギリス中部スタフォードシャー州シャグバラ・ホールのリッチフィールド家の庭園にあった記念石碑にも、プッサン作の『アルカディアの牧童』をもとにした鏡像があるのを発見した。
この石碑には「D.O.V.O.S.V.A.V.V.M」という文字が刻まれており、イギリスのプレッチリーパークの暗号研究所の元解読班員であり、ナチス・ドイツが第2次世界大戦中に開発した暗号機「エニグマ」を破ったオリヴァー・ローンという人物が、2004年に暗号解読を試みたところ、「Jesus (As Deity) Defy(イエスの神性を受け入れない)」という異端の立場を示したものであるという結果を発表している。
またその石碑には、暗号のメッセージに出てきた、プッサンと同時代の画家テニエの聖アントニウスの絵もあったのだ。
テニエは「聖アントニウスの誘惑」という題材を好んだらしいが、発見された絵は"誘惑抜き"の瞑想しているアントニウスだったらしく、背景には女羊飼いが描かれていた。
これは先程のメッセージの「女羊飼い、誘惑はなし、プッサンとテニエが鍵を握る」に当てはまる。
その後もリンカーンは調査を続けたが、シャグバラ・ホールが17世紀にはフリーメーソンの活動中心地であった事が分かるも、それ以上の事は追求出来なかった様である。
しかし、レンヌ・ル・シャトーの宝物というのが、例のフィリップ4世が押収しそこなった、ベズのテンプル騎士団の宝物らしい事は確かであろう。

おお、探せばいろいろあるもんですねえ。


マグダラの塔▲

マグダラの塔▲
ところで、リンカーンが制作したドキュメンタリー番組が放映された後、彼のもとに英国国教会派の僧侶から奇妙な手紙が送られてきたという。
その内容によれば、レンヌ・ル・シャトーの宝物というのは、黄金や宝石類の事ではなく、キリストの聖杯を意味しているというのだ。
さらに、定説となっているイエス・キリストが西暦33年に磔刑になったというのは偽りであり、実は西暦45年まで存命していたという、決定的な証拠があると主張していたのである。
これに食い付いたリンカーンは、僧侶に直接会って話を聞いた結果、それこそがシオン修道会の大いなる秘密であったらしい事が分かってきた。
つまり、シオン修道会の主張では、メロヴィング朝の本当の始祖は、これまで言われていたメロヴェではなく、イエス・キリストだったという事らしいのだ。
これが、彼らがメロヴィング王家をフランス王位に復活させようしていた根拠だと考えられるのである。


磔刑に処されるキリスト▲

磔刑に処されるキリスト▲
さらに、1982年に出版された『聖血と聖杯』というリンカーンの著書で、彼は「イエスは十字架の上では死んでいない。この処刑法では、普通人間は息絶えるまで数日か数週間かかるのに、イエスは数時間で死んだ事になっている。イエスは、ギリギリで追ってから逃れ、その後、マグダラのマリアと結婚してパレスチナを去り、ラングドックに赴くが、西暦74年にマサダの砦攻めで死亡したのではないか。そして、プッサンが描いた丘の中腹の墓こそ、イエスの墓である可能性がある」というショッキングな説を提唱している。
この説の歴史的な正当性はともかく、ソニエールは宝物の発見後に建てた、蔵書を収容する為の塔に、「マグダラの塔」という、明らかにマグダラのマリアから取った名前を付けているし、別荘には「ベタニア荘」という、ベタニアのマリアなる、もう1人のキリストに近かったとされる裕福な女性の名前を付けていたりするのは事実である。
この2人の女性は、同一人物であったという伝承もある。
そしてさらにリンカーンは、実はキリストは自ら磔刑に処され、その後の奇蹟の復活を演出したという、ローマ・カトリック教会の大前提を全面的に否定してしまう考えも示しているのだ。

ええっ!?じゃあ、全部キリストの自作自演だったって事ですか!?


村の教会内にある聖水盤を運ばされる悪魔アスモデウスの像▲

村の教会内にある聖水盤を運ばされる悪魔アスモデウスの像▲
あくまで一仮説に過ぎない。
クリスチャンが聞いたら激怒するか一笑に付すだろうがね。
何故キリストがそんな事を行うのかと言うと、その目的は、恐らく信仰の強化と教団の確立である。
実際にテンプル騎士団がこの考えを持っていたなら、彼らはローマ教会にとって、危険そのものの存在であった事だろう。
ダゴベール2世が暗殺されると、ローマ教皇はメロヴィングからカロリングへの王朝交代を黙認する。つまりこの時から、メロヴィング家にとって、ローマ・カトリックは敵になるのだ。
そしてやがてシオン修道会という、メロヴィング朝系をフランスの王座に復活させるという大義を持つ秘密結社が結成される事になったのだ。
歴史的に見ても、テンプル騎士団の生き残りやメロヴィング朝の信奉者は、事ある事にフランス王位の奪回を試みているしね。
そして1788年にフランス革命が起こり、危機が迫っているのを感じたレンヌ・ル・シャトーの教区司祭ビグー神父は、2枚の暗号文書を作成し、2枚の家系図とともに木製の筒に封じて隠したのである。
2枚の家系図はキリストからシオン修道会の当時のメンバーまでの系譜ではないかと考えられる。


現在のマグダラのマリア教会▲

現在のマグダラのマリア教会▲
それから約1世紀後に、『ダ・ヴィンチ・コード』におけるルーヴル美術館館長ジャック・ソニエールの名の由来となった、ベランジェ・ソニエールが村に赴任し、偶然にも木製の筒を発見したのだ。
そして彼はパリでオッフェ青年にシオン修道会のメンバーに引き会わされ、キリストが十字架の上で死んだのではなく、一つの王朝を樹立したという事実を知り、秘密のメンバーになったとも考えられる。
彼が岩屋を建てる為と称して周辺を歩き回っていたのは、メンバーから得た知識を用いて宝探しをしていたのではないか。そして、本当にそれを発見して大金持ちになった。
あるいは、そうしたキリストに関する重大な秘密をネタに、バチカンを強請って莫大な財産を得たのかもしれない。
彼が臨終の床で打ち明けたのは、こうしたショッキングな事実であったと推測出来るのだ。
それを裏付けるかの様に、後にルイ14世が手に入れて門外不出とした『アルカディアの牧童』の「Et in Arcadia Ego(我<死>はアルカディアにもあり)」の14文字のラテン語をアナグラムしてみると、「Itego arcana dei(立ち去れ!私は神の秘密を隠した)」と訳す事が出来るのである。

何にしろ、神に仕える身でありながら巧い事やりましたね、ソニエール神父。キリスト教で強欲って罪でしたよね?

ところで、『イエスの血脈と聖杯伝説』等といった関連書籍が出版され、また、レンヌ・ル・シャトーの地区が13世紀に滅びた異端カタリ派の本拠地に近かった事から、彼らが隠した財宝がまだ残っているのではないかと、多くの人がこの小さな村に宝探しに訪れる様になり、ダイナマイトを持ち込んだり、石棺をこじ開けようとする者が後を絶たなくなった為、所有者がとうとう石棺を破壊してしまい、行政府は村での発掘を全面的に禁止したという。
ちょっと残念ではあるが、止むを得ないな。

じゃあ、すんごいお宝が村のどっかにまだ隠されているのかもしれないですね。

うむ、あるいはね。
だが、これらの謎の真相が明らかになる日は、果たして来るのだろうか・・・?


参考:『ダ・ヴィンチ・コードの謎を解く』著 東本 貢司 /
『ダ・ヴィンチ・コードの「真実」』著 ダン・バースタイン /
『世界史・呪われた秘宝ミステリー』著 桐生操

初出:[2006.01.01]


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