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[2006.03.15]

中華珍々西遊記②
~北京近郊の魔界遺産巡り~



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BGM:『The Song of Life』

<ロービジョン撮影>

(以下、高倉健っぽく)
地上最大の建造物、グレイト・ウォール「万里の長城」。
全長6000kmにも及び、日本列島より遥かに長く、東は渤海湾近くの河北省の山海関から始まり、西は中国大陸の奥地である甘粛省の嘉峪関まで続いています。
しかし、各地に点在する断片となって残されている個所を加えると、その長さは優に1万kmを超えるという。
その大きさから「月から見える唯一の建造物」とも言われていましたが、2004年12月8日に、宇宙空間から肉眼で観測する事は出来ないと中国科学院により否定されました。

一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されていますが、現在の姿の長城は殆ど明代に作られたものです。
戦国時代に力を持っていた燕、趙、秦の3国は、北の異民族の攻撃に備える為に、それぞれが城壁を築きました。
当時は城壁と言っても現存するレンガと石材で造られた立派なものではなく、馬や人が乗り越えられない程の高さがあればいいという具合の、土を固めた土塁の様なものだったそうです。
これに目をつけた始皇帝は、中華を統一した後、北に作られた長城を繋げ、国の防衛の要としたのです。
1987年に世界文化遺産に登録されました。

観光地として有名なこの八達嶺の長城は、入口から向かって右が比較的穏かな傾斜の「女坂」で、左が急勾配の「男坂」で、最大傾斜は40度だそうです。(今回行ったのは景色が人気な女坂)
長城は地形をフルに利用され、城壁の高さの平均は8m近く、表面は大型煉瓦で、底部は直方体の切石が積まれ、頂部は磚造りの腰壁で、内部は砕石と黄土が詰められているという。
5頭の馬が並んだまま走る事が出来る広道の両壁には隙間が設けられ、眺望と射撃が出来る様に図られています。
また、尾根の高所や城壁の曲がり角といった重要な地点には、堡塁式の城台が設けらています。

ここがこの国のかつての最強ディフェンス・ラインか。
なんてバリアフリーレスな場所だ。
今そこ通った爺さん、死にそうだったゾ。

まあ、何時ぞや敵が攻め来るか分からない当時は、お年寄りへの気配りなんぞしてる場合じゃないですからね。
大体、バリアなのにフリーだったら、防衛にならないじゃないですか。

・・・・・何言ってんだ、お前。

<

それにしてもクソ長い道じゃな。
一体この先は何処まで続いてるんじゃ?
界王のおっちゃんの家とかか?

ざっと6000kmですからね。
相当遠くまで続いてるっぽいですよ。

ろくせんっ!?何処の暇人共がそんなに造ったんじゃいっ!
こりゃ、とっとと進まねえと日が暮れちまうぞっ!

あっ、ちょっ、待ってくださいよー!

ダッダッダッ・・・

モタモタしてっと置いてくぜーい!

動画:ザ!長城!DASH!!
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インストールされていない方はこちらより入手してください。

1分後―

あと先考えずに疾走し、早くもバテた大魔王。

クラスに1人はいるよね、こーいう奴。

くっ、ワシとした事が少々油断していた様じゃ・・・!
お、恐るべし、孔明・・・いや、始皇帝の罠・・・!

訳分からん事言ってないでとっとと来て下さいヨ。

そういえば馬とラクダがおりました。金を払えば乗れるそうです。
何処でも金儲けを忘れないとは、さすが商人の国。

長城の役割の中で大きな位置を占めていたのが、敵の動きを監視する事で、この為に設置されたのが見張り台です。
有事の際はすぐにのろし台から朝廷に連絡が送られ、1日で1000km以上離れた場所まで情報を伝達出来たという。
通信手段は昼間は煙で、夜間は火の量を加減する事で、敵の勢力を表したそうです。

記録によると、長城の建造は30万人もの兵士と数百人の農民が徴集され、過酷な条件の中で働かされ、作業は難航を重ねたという。
6000kmにも及ぶ長城の材料となったレンガや石材は、建造現場の近くに小さな窯をいくつも掘って焼いたものが用意されたそうです。
この時、どのぐらいの窯が必要だったかというと、長城の壁を1m造るのに、なんと20窯以上も用意しなければならなかったそうです。
その為、長城の改修が始まった秦の時代は、レンガを焼き上げる煙が毎日絶える事なく釜から立ち上り、渤海湾近くの森林は燃料にする木の伐採の為に丸裸になったそうです。

また、長城は戦時だけに活用されたのではなく、関所としての役割も持っていたそうで、東西貿易をする商人から、ここで税金を徴収したそうです。

どうやら、「長城に登らずんば、好漢にあらず」とか言う地元の言葉があるらしいな。
つまり、ワシの様に世界征服みたいなデッカイ偉業を成す為には、まずここを訪れなければならないっちゅー訳じゃな!

頼みますから早く好漢になって下さいヨ。

反対側の景色はこんなんでした。

それにしても、雪がちらついた長城というのもなかなか珍しい。

・・・行こう、長城の果てまで!
なァに、次回から記事50ページ分位かければ辿り付けるって!

行けるかッ!ってか、そのピコハン閉まってくださいよ!
さっきからそこの登頂証売りのおっさんがガン見してますってばっ!

万里の長城は、地元中国では「無用の長物」と言われる事があり、結局は北からの敵の侵入を阻止する事が出来なかったそうです。

しかし、それでも2000年に渡って造り続けられてきたこの建造物は、数え切れぬ程大勢の人々の情熱が生んだ賜物であり、これからも尚、その魅力が世界中から人々を引き寄せる事でしょう。

BGM:『The Song of Life』

<ロービジョン撮影>

(以下、あしたのジョーっぽく)
皇室の避暑地であった頤和園(いわえん)は、北京市街の西北約12kmにある、中国に現存する最大の古代庭園です。
総面積は290平方mで、その4分の3を、数百年かけて平地に掘られた人造湖である昆明湖が占める。
また、その湖を掘った残土を盛り上げて万寿山が築かれた。
中国皇室庭園の文化と歴史を伝える傑作として、1998年に世界遺産に登録されました。

頤和園の正門である東宮門。
入口中央にかかる「頤和園」の扁縁は光緒帝直筆だという。

この日は未明から雪が降り、多くの人間が雪かきに駆りだされていました。

頤和園は、皇室庭園として、3、4世紀頃の金の時代から知られていたそうですが、本格的に王室庭園としての整備が始まったのは、1750年からだそうです。
当時は「清イ園」と呼ばれ、高宗乾隆帝が母皇大后の還暦を慶祝する為に、15年の歳月を費やして広大な山水を囲い込む離宮庭園を完成させたのです。
1860年のアヘン戦争で、英仏連合軍によって殆どの木造建築は焼き払われましたが、この庭園がお気に入りだった西太后慈禧の命によって、1886年に海軍費を流用して修復が開始され、1888年に「頤和園」と改名されました。
1900年にも、義和団事件の所為で再び破壊されたそうですが、それも修復され、1904年より旧清皇室が有料の公園として一般開放され、1947年の人民共和国成立後は、重点的に整備され、現在では北京有数の行楽地となっています。

入り口付近にある『西遊記』の孫悟空の形をしているという岩。
かなり無理がある。

仁寿殿という建物の前には、やたらめったら巨大な岩がありました。

中国の伝説上の動物「麒麟(きりん)」の石像。
麒麟は獣類の長とされ、形は鹿に似ていて、背丈は5mあり、牛の尾と馬の蹄をもち、雄は頭に角を持つと言われています。
背毛は5色に彩られ、毛は黄色く、頭に肉に包まれた角があり、性質は穏やかで優しく、虫や植物を踏む事さえ恐れる程、殺生を嫌うそうです。この顔で。
また、麒麟の寿命は1000年にも及び、その鳴声は音階に一致するそうです。
ちなみに、明の鄭和による南海遠征の際、実在の動物であるキリンが、永楽帝に麒麟として献上された事がキリンの和名の起源となっており、また、キリンビールのマークも、この麒麟の姿を描いたという事で有名です。

「太湖石」。
一見流木の様にも見えますが、穴ぼこだらけの石です。
これは、太湖という湖の底にある石で、穴は自然にできたものらしく、中国ではこの太湖石を庭に置くのが一種のステータスとされていたそうです。また、水や煙を出すと、全ての穴を通るそうです。

中国っぽい雰囲気のある路地。

独特な感じの、妖気が漂ってきそうな木が生えていました。

頤和園名物の全長728mもある長廊。
柱の梁には、『西遊記』や『三国志』といった、8000点にも及ぶ歴史的絵画が描かれている。

しかし、現在は2008年の北京オリンピックに向けて、大規模な改修工事が施されており、歩く事は出来ない。なんてこったい。

寒さにより一面凍結した「昆明湖」。

ここは、乾隆帝が造った人口湖であり、漢の武帝が長安(西安)で水軍の訓練の為に開削した昆明池の故事にのっとり、もともとは「西湖」と呼ばれていたこの湖を昆明湖と改称したという。
時間の都合により、氷上でイナバウアーは出来ませんでした。

昆明湖を望む門「雲輝玉宇」。横浜の中華街みたいだ。

頤和園のシンボルにして本殿である「仏香閣」。
万寿山の前山に立てられた巨大な石製台座の上にあります。

もともとこの場所には、9層の塔が建てられるはずだったそうですが、8層まで完成したところで、都城の西北方に塔を建てるのは不吉とされ、また、昆明湖の広い水面に対し、細長い塔では貧弱であると騒がれ為、完成直前に全て取り壊されたそうです。
その後、杭州の銭塘江に臨む「六和塔」に従って、8閣3層で、高さ41m、基壇の高さ20mの仏香閣が建てられたそうです。
塔の内部には「南無大悲観世菩薩」があり、また、ここからの眺めは絶景であるとされています。

ここも改修工事中で入れなかったけどヨ。

またもや、やたらめったら巨大な岩。
持ってくる時に苦労したっぽいです。

昆明湖に突き出して造られた「知春亭」。
ここは、北部が丘陵に向かい、南部は湖側の太陽に向かって建てられている。
この位置関係は、春の訪れを知るに非常に良い事から、知春亭と名前が付けられたそうです。

それにしても、

クソ寒くて死にそうでした。

(-5℃)

BGM:『The Song of Life』
<ロービジョン撮影>

(以下、マイティ・ジョーっぽく※もう限界デス


北京から北西44km、昌平県の天寿山南麓に広がる「明の十三陵」は、その名の通り、明朝(1368-1644)の皇帝13人と、その皇后23人、貴妃1人が眠る墓。 2003年に世界文化遺産に登録されました。

ここは第3代の永楽帝が、明王朝の始祖である太祖朱元璋(当時の都であった南京に造られた孝陵)に習い、風水の思想に沿って、天寿山の南麓を自らの陵墓に定め、在位中の1409年から工事に着手し、18年という歳月をかけて建造され、明王朝滅亡まで約200年間に渡り造営された皇帝墓群です。総面積は40平方km。
現在一般公開されているのは、永楽帝の「長陵」、隆慶帝の「昭陵」、万歴帝の「定陵」といった3ヶ所の陵墓と、陵道(神道)だけです。

十三陵の発掘調査は1956年5月に開始され、翌1957年5月に、第14代万暦帝の定陵である地下宮殿(玄宮)が発掘され、頑丈に閉ざされた扉が337年ぶりに開けられたそうです。
現在、この深さ27mにある石造りの地下宮殿は一般に公開され、発見された棺や金銀の副葬品等が博物館に展示されている。
7階建のビルに相当する階段を下って、地下宮殿に入ります。

この地下宮殿は前殿、中殿、後殿と、中殿の左右の横殿の5つの石室から構成されている。
階段を下りると、まず墓室の横殿に出て、ここを抜けた中殿には、竜の彫刻が施された漢白玉の王座がある。
更にこの中殿を出ると、大理石の大扉があり、この先が後殿になっている。全体的に空気がひんやりしていました。

昔なつかし中国古代便所ニーハオ・トイレ・・・ではなく、これは皇帝の魂が抜けれる様に造られたとかいう穴だそうです。たしか。

一番奥の後殿には台座があり、3つの棺が置かれていました。
中央が皇帝、左右が皇后と側室のものだそうですが、本当は中殿の左右の横殿に、皇后と側室の棺を置くはずが、入り口が小さく棺が入らなかった為、中殿に3つの棺が並ぶ事になったそうです。
ザッツ古代の建築ミスですね。
また、発掘時は棺の保存状態が悪く、朽ち果てていた為、現在置かれている棺は、最近になって作られたレプリカだそうです。

発掘時には数々の副葬品が納められていたという、宝箱も展示されていました。

この様な地下宮殿が他の墓にも複数存在するらしいですが、まだ内部を保存出来る技術が無い為、敢えて発掘はしていないそうです。
ちなみに、ある皇帝は、陵墓が完成した際、墓の秘密を守る為に、打ち上げの酒盛りの席に毒を盛り、建設に関わった労働者全てを殺害したといわれています。とても素敵な冷血動物っぷりですネ。

地下宮殿の上部にある定陵の明楼。

中央にはぶっとい万暦帝の石碑が建っていました。

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オマケ

北京市内にあった店の看板。
思わず「牛魔王かよっ!」とツッコミたくなった。

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