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[2019.04.26]

ヨーロッパ・オカルトアート紀行⑥
~世界一美しい街の暗黒幽鬼伝説(アンデッドランドサガ)~



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2000年、プラハの考古学者達が、チェスキー・クルムロフの街外れ(プレシヴェッカー通り)で発見された17~18世紀の墓地を調査中、異様な3体の骸骨を掘り出した。
キリスト教の埋葬では通常、遺体は南北方向に安置されるが、それらの骸骨は真逆の東西方向になっていた。
また、下半身の方でクロスされた腕にはロザリオが巻きつけられ、手足の上には大きな重石が乗せてあった。
さらに、特に奇妙だったのが、骸骨のうちの1体は心臓の部分に杭が打たれた形跡があり、 別のもう1体は首を切断され、頭蓋骨が膝の間に置かれていたのである。
そして、その頭蓋骨の口には石が噛まされ、首の第一関節が無くなっていた。



吸血鬼の疑いがある死者の墓を暴き、マギア・ ポストゥーマを行う図▲
吸血鬼の疑いがある死者の墓を暴き、マギア・ ポストゥーマを行う図▲

法医学的な分析の結果、発見された3体の骸骨は、スラブ民俗における古い吸血鬼退治の儀式的埋葬 「マギア・ ポストゥーマ(死後に施す魔術)」が行われたものと結論付けられた。
これは18世紀当時、ヨーロッパ各地は吸血鬼伝説の恐怖に脅かされており、 吸血鬼の疑いをかけられた者が死後、夜な夜な蘇るのを防ぐ為の処置であった。
天然痘などの伝染病も吸血鬼がもたらす災いとされ、 何か起こると罪人などの墓を掘り起こし、遺体の心臓に杭を打ち込んだり、頭部を切断したのである。
吸血鬼といえば、現代ではドラキュラ伯爵(アイルランドの作家ブラム・ストーカーの同名小説の登場人物)のイメージが一般的で、そのモデルの一人として、15世紀のワラキア公ヴラド3世(※1)の名が知られている。
しかし、そうした生き血を好む怪人・怪物の他、仮死状態で一度埋葬されて蘇生した人や、腐りにくい死体、幽霊や魔女、悪魔のような存在など、時代や地域によって色々な形態の伝承があり、主に夜間活動する超自然的なもの全般を指す概念でもあった。


ヴラド3世(左)とドラキュラ伯爵(右)▲

吸血鬼伝説は古代からあったが、17~18世紀頃に東欧諸国で顕著に流布した要因として、 これらの不可解な事件や迷信が出版物として一般に普及した事や、 医学が十分に発達していなかった為、原因不明の疫病(コレラなど)の発生が、 一種の集団パニックを引き起こしたとも考えられている。
吸血鬼を意味する「ヴァンパイア(vampyre)」という言葉が登場し始めたのもこの頃で、 1730年代には出版物で使用されている。
語源は諸説あるが、スラブ語の「Vampir(飛ばない人)」や、 リトアニア語の「飲む(Wempti)」、トルコ語の「魔女(uber)」などとされる。

※1:ヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)は、1460年頃のワラキア公国(現ルーマニア)の領主。
敵味方問わず、数多くの人々を串刺しで処刑した事から、「串刺し公(ツェペシュ)」の異名を持つが、どちらかといえば、「ドラキュラ公」という通称が多く用いられたとされる。
ドラキュラとはドラゴンの息子という意味で、所属していたドラゴン騎士団の名から、 彼の父ヴラド2世がドラクル(ドラゴン)公と呼ばれた事に由来する。
ドラゴンと悪魔は同一視される事も多かった為、これがヴラド3世の残酷さと重なり、 後の小説や映画に登場する吸血鬼ドラキュラ伯爵のイメージに繋がる事となった。
しかし実際のところ、それらフィクションの設定とヴラド3世の共通点は、 ドラキュラの名前とルーマニア出身といった断片的な部分しかなく、 彼が本質的な意味でドラキュラのモデルと呼べるかどうかは、研究者によって意見が分かれているようだ。

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さて、発掘された3体の骸骨のうち、頭蓋骨が膝の間にあった1体は、女性の骨格である事が判明した。
当時、“最も危険な吸血鬼は貴族の出身”とも信じられており、 街の歴史を振り返ってみると、吸血鬼の疑いをかけられたという、ある貴族の女性の存在が浮上する。


「ヴァンパイア・プリンセス」こと、エレオノラ・アマリア・フォン・シュヴァルツェンベルク侯爵夫人(1682年~1741年)▲
オカルトに傾倒していた彼女は奇行が目立ち、人々から吸血鬼の疑いをかけられた。
「ヴァンパイア・プリンセス」こと、エレオノラ・アマリア・フォン・シュヴァルツェンベルク侯爵夫人(1682年~1741年)▲
オカルトに傾倒していた彼女は奇行が目立ち、人々から吸血鬼の疑いをかけられた。

彼女の名前は、エレオノラ・アマリア・フォン・シュヴァルツェンベルク。
元はロブコビッツ家の令嬢で、チェスキー・クルムロフ城を最後に所有した、シュヴァルツェンベルク家に嫁いだ公爵夫人である。
ちなみにこのシュヴァルツェンベルク家は、ウィーンに宮殿を持つ名門貴族で、 19世紀にクトナーホラのセドレツ納骨堂を購入し、骸骨で紋章を作らせた一族でもある。
エレオノラは、夫アダム・フランツ王子との間になかなか子宝に恵まれなかった為、 城内にオオカミを飼って、日々そのミルクを飲んだという。
当時オオカミのミルクには、子供を宿す力があると考えられていたからである。
実際、そうした努力の甲斐もあってか、彼女は42歳にして無事に男児(ヨゼフ)を出産した。
しかし、街の住人達はお祝いムードになるどころか、むしろ彼女の事を恐れ、震え上がった。
何故ならこの頃、オオカミは悪魔や魔女の使いとも考えられており、 その鳴き声が夜中に城から聞こえてくるのは気味が悪く、 エレオノラは黒魔術を用いて子供を出産したのではないかと噂されたという。
彼女が怪しまれた要因としては、 平均寿命が現代よりも少ない当時において異例の高齢出産である事や、 主に日中寝て夜に活動する昼夜逆転の生活を送っていた事、 趣味の狩猟においても、オオカミだけは撃たなかった事なども挙げられる。


1732年、夫アダムが皇帝カール6世との狩猟の最中、不慮の事故で急死すると、 未亡人となったエレオノラは皇帝の資金援助を受けるが、息子ヨゼフはウィーンに移住する事となる。
これはシュヴァルツェンベルク家側が、「あんな危険な女に一族の大事な跡継ぎを任せられない」と考え、 エレオノラとヨゼフの親子を引き離したのである。


その結果、広大なチェスキー・クルムロフ城で生涯孤独に暮らす事となったエレオノラは、 ショックのせいか体は痩せ細り、精神は錯乱状態に陥るなど、心身ともに衰弱。
容態は悪化の一途を辿り、名医が城に駆けつけ彼女を診察するも、当時の医学では原因不明であった事から、 「悪魔の力に頼った報いとして、吸血鬼になる病にかかっている」と診断した。


実際、エレオノラはこの頃、魔術に使う怪しい薬品や道具を買い漁ったり、 悪魔祓いの儀式を城内で行ったりするなど、明らかにオカルトに傾倒しており、 周囲は「亡くなった夫を甦らせる儀式を行っている」と噂したという。
そして1741年、自身の死期を悟ったかのように、エレオノラはウィーンのヨゼフを訪ねると、 そのまま数日後に帰らぬ人となった。
享年58歳であった。


エレオノラの死後、秘密裏に遺体の検死解剖が行われた。
しかし、特段の理由もなく、高貴な人物が解剖される事は当時でも珍しく、 また、担当医師が破格の高額報酬(日本円で約940万円)で集められた事も異例であった。
吸血鬼の疑いがあった女性という事で、諸々のリスクや口止め料などが加味された為と考えられる。
解剖の結果、遺体の腹部から子供の頭ほどの腫瘤が見つかり、現代医学では子宮頸がんが死因と推測される状態だったが、 当時の報告書では何も明らかにされなかった。


だが、実はこの時、彼女の遺体から心臓の摘出も行われたという。
これは心臓の杭打ちと同様の効果を持つとされたようで、 つまりこの解剖は、エレオノラが吸血鬼として蘇らないようにするトドメの儀式、マギア・ ポストゥーマであった。


遺体はその後、深夜にもかかわらず、すぐに数百キロ離れたチェスキー・クルムロフへと移送された。
また、シュヴァルツェンベルク家の人間が死ぬと、通常はウィーンの先祖代々の墓所(現在のアウグスティーナ教会)に埋葬されたが、エレオノラの場合、摘出された心臓だけが教会の外壁に埋め込まれるという、とても不可解な対応が取られた。


移送されたエレオノラの遺体は、チェスキー・クルムロフの中心にある聖ヴィート教会に葬られた。
六角形の塔が印象的な、1439年に造られたゴシック建築である。


エレオノラの葬儀はクルムロフ城の礼拝堂で行われた後、夜になってから教会の墓所へ移動したという。
しかし奇妙な事に、葬儀には高官や親族はおろか、息子のヨゼフすら出席せず、 貴族の最期とは思えない寂しいものだったという。


教会内部の様子。
エレオノラの墓はこの本堂から離れた礼拝堂に特別に建設され、石や木で何重もの封印がなされていたという。
また、墓石には姓も家紋もなく、骸骨の絵柄に死亡年月日と、 「Hier liegt die arme Sunderin Eleonora. Bittet fur sie.(ここには貧しい罪人エレノオラが横たわる。彼女のために祈る)」という文章が刻まれたらしい。


エレオノラが埋葬されると、街の住民達は「吸血鬼の貴婦人が蘇るかもしれない」と恐怖し、疑心暗鬼に陥った。
かくして、彼らは自分の家に吸血鬼避けの十字架やニンニクを掲げるだけでなく、襲われる前に退治してやろうと吸血鬼狩りを開始。
怪しい人物の死体は片っ端から掘り起こし、マギア・ポストゥーマを行ったのである。
こうした吸血鬼パニックは、18世紀にヨーロッパ各地で発生し、 女帝マリア・テレジアに全面的に禁止されるまで何年も続いた。


クルムロフ城内にあるエレオノラの肖像画。
狩り好きを物語るライフルを手にした彼女が、息子ヨゼフと一緒にいる構図である。
散々な扱われ方の割には、意外とマトモな貴族っぽい感じに描かれているようだが、 よく見ると彼女の頭部の周辺に、不自然な線跡があるのがお分かり頂けるであろうか。


実はこの部分は、1996年のX線検査の結果、18世紀に一度キャンバスから正方形に切り取られ、 後に描き直されている事が判明した。
詳しい理由は不明だが、遺体の断首と同様、吸血鬼と見なしたエレオノラに対する一種の儀式であったとも考えられ、人々が彼女に抱いた恐怖が伺える代物である。


細い路地をデタラメに歩いていたら、急に庭園のような開けた場所に出た。周囲には誰もおらず、ひっそりとしている。

もう今何処にいるのかよく分からん。

よもや読者の皆さんも、長尺の説明の裏で我々が迷子になっていようとは思わなかったでしょうね。

だから地図ちゃんと見なさいってのよ。


ここからは聖ヴィート教会もよく見えた。
あとで分かったが、どうやら修道院の敷地に紛れ込んでしまっていたようだ。


意味深な彫像。
ちょうど教会の方に体を向けており、 その姿は奇しくも、頭部を切り離されて埋葬されたエレオノラを思い出させる。

よし、これを今回のオカルトアートという事にする。

急に思い出したようにブッ込んできましたね・・・。

そんなテーマの存在、すっかり忘れてたっつーのよ。


さらに奥にも、これまた謎のオブジェが。
吸血鬼などのモンスターを思わせる造形である。


現代の吸血鬼のイメージを決定付けた、ブラム・ストーカーの怪奇小説『ドラキュラ』は、 一説によれば、“エレオノラの吸血鬼伝説にインスピレーションを受けて誕生した”ともいわれている。
彼が『不死者(The Un-Dead)』という題名で執筆していた小説の初稿版には、冒頭に女の吸血鬼が登場する章があり、 それらしき発想が盛り込まれていたそうだが、1897年の発表時には削除されてしまったという(※2)。
また、作中に登場する吸血鬼ハンターのヴァン・ヘルシングは、エレオノラを診察した医師で、カール皇帝の命で吸血鬼調査を行っていたゲラルド・ファン・スウィーテンがモデルだともいわれている。

※2:この削除された章は、作者本人か出版社が物語の流れ的に不要と判断したのか定かではないが、ブラム・ストーカー死後の1914年に、短編『ドラキュラの客』として出版されたという。
その内容は以下の通り。
ワルプルギスの夜、ミュンヘンから程近い高地で、吹雪に見舞われたイギリス人ジョナサン・ハーカーが古い墓地にさしかかり、屋根がついた大理石の立派な墓に避難した。
その墓碑には、「死者は速馬に乗る」と刻まれていたが、これは詩人ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーの譚歌『レノーレ(Lenore)』に出てくる文で、このタイトル自体もまた、エレオノラ(Eleonore)にちなんでつけられた可能性があるという。
やがて稲妻が墓に落ちると、中で眠っていた美しい伯爵夫人(アンデッド)が燃え叫ぶ。
ハーカーは気を失い、次に目覚めた時には彼の胸の上にオオカミが座っていたが、 これは死者達の為に血を温めておこうとしたのであった。その後、ハーカーは騎兵隊に救助された――。
このように、埋葬された伯爵夫人や『レノーレ』、オオカミといった要素などから、研究者の間ではエレオノラの伝説を基に書かれたものと推察されている。

雑誌に掲載された『カーミラ』の挿絵▲
女の吸血鬼というのは当時珍しかったが、襲うターゲットは全て女性という設定もあり、若干の百合っぽい雰囲気も。ちなみに作者ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュは、ブラム・ストーカーの母校の先輩でもある。

血の伯爵夫人エリザベート・バートリ(1560年~1614年)▲
あまりに人を殺し過ぎた為、大量虐殺を意味する「blood-bath (ブラッド・バス/血の風呂)」という言葉を後世に生み出したともいわれる。
血の伯爵夫人エリザベート・バートリ(1560年~1614年)▲
あまりに人を殺し過ぎた為、大量虐殺を意味する「blood-bath (ブラッド・バス/血の風呂)」という言葉を後世に生み出したともいわれる。

ただし、基本的に『ドラキュラ』は、1872年にアイルランド人作家ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュが著した怪奇小説『カーミラ』の影響を大きく受けているようだ。
これはアイルランドの吸血鬼伝承が基になっている作品で、カーミラは登場する女吸血鬼の名前だが、 彼女のモデルは「血の伯爵夫人」の異名を持つエリザベート・バートリともいわれている。
エリザベート・バートリは16~17世紀のハンガリー王国の貴族で、 自らの美容の為に処女の血を求め、数百人の若い娘をさらって刑具・鉄の処女で生き血を搾り取り、 城内の浴槽に血を満たして浸かったといわれている。
その為、彼女も実在した吸血鬼として見なされており、前述の小説などの数多くの作品に影響を与えた。
エレオノラが誤解の連鎖による悲劇だったのに対し、エリザベートはガチ勢のヤバい連続殺人鬼(それも人類史上最大レベル)だが、 “夫に先立たれ、古城で孤独に暮らした貴婦人”という、双方の共通点は興味深い。
いずれにせよ、ブラム・ストーカーはこうした複数の史実や、ヴラド3世がいたトランシルバニア地方を中心とした民間伝承を研究し、ドラキュラ伯爵というキャラクターを創造したのである。


ヴァンパイア・プリンセスとホワイト・レディー――2人の悲劇の貴婦人が眠る美しき街に別れを告げ、 歴史のダークサイドを照らすオカルトアートの旅は、こうして一応の幕を閉じたのであった。

【参考資料】
Die Vampirprinzessin(ヴァンパイア・プリンセス/2007年放送のドキュメンタリー番組)

そして旅は、エクストラステージへ――。

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