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[2012.09.23]

不可解な集団失踪事件



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アンジクニのイヌイット村▲

当時のイヌイットの家族はこんな感じ▲

当時のイヌイットの家族はこんな感じ▲
この世にはね、それまで普通の日常生活を送っていた大勢の人間が、ある日突然、神隠しみたいに行方不明になってしまうってな、怖~い事件が起こってたりするんですよ。
例えばこれなんか有名なケースなんですがね。
1930年12月、カナダのアンジクニってなイヌイットの暮らす小さな村から、一夜にして30人の村人全員が忽然と姿を消したんですよ。
ある日、猟師のアーノルド・ローレントと彼の息子は、アンジクニ湖の上空付近に弾丸のような形をした奇妙な光が横切っていくのを目撃した。
それから数日後、別の猟師のジョー・ラベルがアンジクニ村を訪れた際、すぐに雰囲気がおかしい事に気づいたんですね。
っていうのも、大人子供あわせて30人いるはずの村人の姿が誰一人見当たらず、村が妙なくらい静寂に包まれていたんですよ。
おかしいな~、なんか気味悪いな~って、ラベルがとりあえず村を調べるとですね、普段移動するのに使っているであろうソリも湖岸のカヌーも停泊したままなんですね。
でもって、ラベルが村の小屋やテントの中に入ると、火にくべられた肉や鍋の中身がそのまま残って凍り付いているんだ。
まるで食事中に急に外出したみたいにね。
しかし、おかしな事に、アザラシの毛皮の上着や武器のライフルは、全てそのまま置いてあるんですね。
この村のイヌイットの外出時の必需品なのにもかかわらずですよ。
こりゃいよいよ尋常じゃない。
ってな事で、ラベルはこの状況をRCMP(カナダ山岳警察隊)に通報した。
その後、警察の調査により、雪の中から数十頭の犬が木に鎖で繋がれたままの状態で餓死していた事と、何故かその地域の墓が全て掘り起こされ、生者ばかりか死体までも消えていた事が判明したそうですよ、ええ。

現在のアンジクニ湖の様子▲

試しに開催してみた村人総出のかくれんぼ大会が白熱しすぎて、うっかり皆凍死しちゃったんじゃね?

んな訳ないでしょうが・・・。
しかし、思わせぶりに目撃された奇妙な光ってのも気になりますね。

私も以前、間違って日曜日に登校しちゃった時、当然クラスに誰もいなくてこれに近い孤独感に苛まれましたね・・・。


フランク・エドワーズ▲

フランク・エドワーズ▲
残念ながら、その話は超常現象作家のフランク・エドワーズが著書の『Stranger than Science』なる本に書いた話に、勝手に尾ひれがついて広められたものに過ぎない。
そう、つまりデマなのだよ。
この本は、かつてフランク・エドワーズがラジオアナウンサーをしていた際、 担当していた『世にも不思議な物語』という番組用に集められた謎をまとめたものだそうなのだが、 基本的に彼は超常現象を肯定的に捉えるビリーバー(言ってみればアメリカ版の矢追純一)であった為、 真偽を考慮しない自分の都合の良い調査と論法も手伝い、デマ話が実しやかに語られてしまうようになったと思われる。
それに実際のところ、王立カナダ騎馬警察は1930年の集団失踪事件の発生を否定しており、そもそも、アンジクニにイヌイットの村など最初から存在せず、地元の猟師や騎馬警官も誰もそんな事件の話はないと主張しているそうだ。

チッ、頬杖なんぞつきやがってこの狸オヤジが・・・!

なんか「てへっ」って顔してますねエドさん・・・。

まあまあ、オカルト話にはよくある事ですよ・・・。


第一次世界大戦のイギリス陸軍▲

第一次世界大戦のイギリス陸軍▲
しかしね、人々が集団で失踪したってな事件はまだまだ沢山あるんですね。
1915年8月21日、第一次世界大戦中であった当時、341人のイギリス陸軍ノーフォーク連隊がトルコのアンザック付近にあるサル・ベイ丘の方へ向かって行進していたんですね。
丘の上には灰色の雲があり、連帯が進んでいくと、それがだんだんと下降し始めてきた。
この時の状況は、少し離れた場所からイギリス軍側のニュージーランド兵22名が一部始終を見ていたらしく、 まるでノーフォーク連隊は雲の中へ向かって行進している様だったそうですね。
ところがですよ、1時間程経つと先程までの雲が消え、丘が見渡せる様になったそうなんですがね、 行進していた兵隊の列は、影も形も無くなっていたんだなあ。

現在のサル・ベイ丘▲
ノーフォーク連隊は矢印の方へ進軍して消失した。

ニュージーランド兵が見ていた場所ってのは、数十㎞四方が目視出来る場所で、隠れられるような場所もない。
にもかかわらず、341名の兵士達がまるで昇天したかの如く、雲に飲み込まれて消えてしまったんですね。
もちろんその後、すぐにイギリス軍は調査隊を送り、ノーフォーク連隊の行方を探したんですがね、死体はおろか手がかりさえ見つける事が出来なかった。
戦争が終結した1918年になってから、3年前に行方不明になったノーフォーク連隊は、実はトルコ軍の捕虜になったのではないかとも疑われたが、 そのような事実は無かったそうなんですよ。
結局、その後も341名の兵士は皆、誰一人帰ってくる事は無かったそうです。
アジアにも集団失踪事件の報告があります。
1939年10月には、汽車で運ばれた3000人にものぼる中国兵が、南京付近の広野に約3㎞に渡って配置された。
ところが、配置が完了した数時間後、司令官が宿舎から前線に戻ったところ、 先程まで待機していたはずの3000人の兵士達が全ていなくなっていたそうなんですね。
しかし、辺りには焚き火が燃えており、兵士達が装備していた銃は投げ出されていたそうなんですが、 何処かへ向かう様な足跡は見つからなかったそうですよ。

そんなに大勢の人間、一度に何処に行ったんでしょうねえ。
時空乱流に飲み込まれたのかな?

うーむ、急遽近所にあった旨いラーメン屋に移動した・・・訳でもなさそうじゃしな。

どんだけ行列の出来る店なんですか・・・。

ハーメルンの笛吹き男伝説を描いた絵▲
ハーメルンのマルクト教会にあるステンドグラスから模写された、現存する最古の笛吹き男の水彩画(アウグスティン・フォン・メルペルク画、1592年)

一見して不可解な失踪と思える話でも、大概は科学的・論理的に説明は可能だよ。
例えばグリム童話としても知られている「ハーメルンの笛吹き男」。
この話は、13世紀に実際に起こった子供の集団失踪事件が基になっているとされる。
伝承によると1284年、ドイツの街ハーメルンに「鼠捕り」を名乗るカラフルな衣装をまとった奇妙な男が現れる。
その男は報酬と引き換えに街を荒らしまわるネズミの駆除を持ち掛け、ハーメルンの人々はそれに応じた。
男が持っていた笛を吹くと、その音色によって惹き付けられたネズミの群れがウジャウジャと姿を現した。
すると男は、近くを流れるヴェーザー川にネズミを誘き寄せて、全て溺死させたのだった。
しかし、ネズミ退治が成功したにもかかわらず、ハーメルンの人々は約束を破り、男に報酬の支払いを拒否する。
これに怒った男は街を一旦去るも、6月26日に再び戻り、住民が教会にいる間に、男は再び笛を吹き鳴らし、ハーメルンの子供達を街から連れ去った。
130人の子供達は笛吹き男の後に続き、洞窟の中に誘い入れられ、中に入ったっきり彼らは二度と戻って来なかった・・・と伝えられている。
この伝承の謎、即ち笛吹き男の正体と、130人もの子供達の行方については様々な説や解釈がなされているが、近年信憑性の高い説はこうだ。 誘拐事件が発生した時期は東ヨーロッパに向かって開拓者がどんどん移住しており、 当時の子供は貴重な労働力であった為、ヨーロッパ各地で誘拐事件が多発していた。
そして、事件が発生した6月26日はキリスト教のヨハネとパウロの祭日だが、元々はゲルマン民族の夏至祭りであり、 結婚式などで町中の大人達が教会などに集まっている事で、子供達への注意が怠っていた。
その隙をついて、かどわかされた大勢の子供達が、労働力としてルーマニアに連れ去られたのだ。
実際、ルーマニアの中世の記録『キルヒャーの見聞録』にも、“突然、聞いた事もない言葉を話す子どもがたくさん現れた”と記されているそうだ。
製粉業が盛んで川の近いハーメルンの街は、ネズミが大量に増えるので、役所はネズミを捕る事を奨励して買い上げていた。
その為、 ネズミ捕りを商売にする流れ者が街にやってくるようになり、そうした現れては消える怪しい彼らと、子供の集団失踪が合わさって生まれたのがこの「ハーメルンの笛吹き男」伝説となった・・・のかもしれない。

おそろしい話じゃな・・・支払い拒否とかマジありえんぞ。

そこかよっ!

いずれにしても、知らない人にはついて行っちゃダメですよね。

「失われた植民地」と呼ばれるロアノーク島▲

こんな話もあります。
16世紀後半、現在のアメリカのノースカロライナ州には、ロアノーク島ってな植民地があったんですね。
ここはイングランド女王エリザベス1世の寵臣であるウォルター・ローリーにより、1585年から1587年にかけて植民地化が進められ、 この小さな島に開拓民が二度に渡って派遣されたんですよ。
1587年7月22日、ローリーの友人である芸術家のジョン・ホワイトが指揮を執る植民者遠征隊が派遣され、ロアノーク島には115人の男女の植民者が残されたんですよ。
しかし、先住民との関係悪化もあり、ホワイト自身は援助を要請するべく本国に向けてすぐに島を出航したんですがね、 この頃、スペインとの戦争が続いていた為に、彼はその後3年間、島に訪れる事が出来なかった。

謎のメッセージを残し植民者達は失踪を遂げた▲

1590年8月18日、ホワイトはようやく遠征隊の私掠船に乗り、カリブ海からの帰り道にロアノーク島に上陸した。
そして、植民者達と感動の再会・・・となるかと思いきや、ところが、開拓地はすっかり荒廃し、 家屋や防御工作物は全て解体されており、男90人、女17人、子供11人の植民者達は何処にもいない。
植民者同士が争った様な痕跡もなく、数少ない手がかりとして、砦の柱に「クロアトアン(CROATOAN)」という言葉と、近くの木に「クロ(CRO)」という言葉が彫り付けられていたんですねえ。
ホワイトはね、3年前に島を発つ時、何かヤバい事が起こった場合は、近くの木にマルタ十字を彫る様に指示していたそうなんですがね、 その十字架は彫られていなかったんで、柱のメッセージは植民者達がクロアトアン島に移動した事を意味しているって解釈するも、 大きな嵐が近づいていた為、それ以上の探索を諦めて引き上げたそうです。
結局、失踪を遂げた115人の植民者達がどうなったのか、誰にも分からず仕舞いだったってな話ですよ。

現場に残されていた謎のメッセージ・・・。
本当はどんな意味だったんですかね?

「探すなよ!絶対に探すなよ!」みたいなフリだったんじゃねーか?

そーだとすると、せっかく移動先を示しておいたのに、結局誰も探しに来ず、 さぞ植民者の人達も涙目だったでしょうね・・・。


周辺インディアンの族長のイメージ▲

周辺インディアンの族長のイメージ▲
近年の研究による有力な仮説として、ロアノーク島の植民者達は、クロアタン族といった周辺インディアンの中に吸収されたというものである。
1998年、東カロライナ大学はこの事件を考古学的に調査する「クロアトアン・プロジェクト」を組織化し、 島に派遣された発掘調査チームによって、昔のロアノーク植民地から80 kmに位置する古代クロアトアン族の首都があった地点で、 16世紀の10カラットの金製印章指輪、銃の火打ち石、16世紀の銅貨2枚を掘り出したそうだ。
分析の結果、印章指輪に刻印から、ケンドールの紋章に行き着き、 どうやらこの指輪は、1585年から1586年にロアノーク島にあったラルフ・レーンの植民地に住んだ記録のあるマスター・ケンドールの所有物だったが可能性が強いと結論づけられた。
1998年にはまた、アーカンソー大学地理学部の気候学者デビッド・W・スタール氏と、ウィリアム・アンド・メアリー大学考古学研究センターの考古学者デニス・B・ブラントン氏が、 樹齢800年のラクウショウの年輪から当時の降水量と気温の推測を行ったところ、 植民者がロアノーク島に上陸した頃は、ちょうどこの800年間で最悪の干魃時期にあたったと結論づけたのだよ。
干魃は1587年から1589年まで3年間継続し、非常に乾燥した3年間であったと『Science』誌にも報告され、 特にロアノーク島に近い海岸部は厳しい環境であったという。
つまり、植民者達は干魃に窮し、食料を求めて他の土地に移り住んで行き、ロアノーク島のロスト・コロニーは放棄されたのではないかとも考えられる。
また、近隣の一部インディアンの中には、ヨーロッパ人の身体的特長を備えて英語を話し、既にキリスト教を知っている者がおり、ロアノーク島から来た植民者の子孫である事を思わせる要素や伝承があったとも云われている。


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